江古田浅間神社|東京都練馬区小竹町の神社
号:浅間神社
祭神:木花佐久夜姫命
境内社:稲荷神社
相殿:-
祭日:例大祭9月15日
住所:東京都練馬区小竹町1-59-2
備考:江古田の富士塚、東新町氷川神社の兼務社
江古田浅間神社の由緒
■江古田浅間神社由緒書より■
当社の創建は不詳です。承平元年(931)六月夏山茅原浅間(当時)に雪が降り、
この山がいかにも富士山に似ているので村人が登ってみると
神体と思われる石を拝したことから「富士の大神」と崇め奉りたことに始まるといわれています。
「新編武蔵野風土記稿」の上板橋の項に「富士浅間神社・能満寺・西光寺侍」とあります。
また当社は「茅原浅間神社」という呼称があり、江戸中期になると
富士講の盛んな上板橋・中新井・下練馬の人々にも崇敬され「江古田の富士」
と呼ばれさらに親しまれるようになりました。
江戸後期には富士浅間神社と呼ばれ、能満寺が別当でした。
大正四年(1915)武蔵野鉄道(現西武池袋線)開通で江古田駅が設けられた為に
清戸道からの参道は中断されました。
本殿は天保十年(1839)の建築ですが大震災で損壊しましたが
大正十三年(1924)には補修しました。
拝殿は昭和二十七年(1952)に、神楽殿は二十九年(1954)に新築しました。
境内には練馬区指定の「大樹のケヤキ」(ネリマ区の名木)が二本あります。
当社は現在、板橋区東新町に鎮座する「氷川神社」の境外末社として奉斎されています。
なお、練馬区の密集住宅街地整備事業により平成四年度(1992)からの
主要生活道路の整備に伴い平成十三年(2001)度より当社境内地拝殿・神楽殿・社務所の新築、改修、
および玉垣・参道の整備を実施しました。(江古田浅間神社由緒書より)
■練馬区教育委員会掲示による江古田浅間神社の由緒■
「新編武蔵風土記稿」の上板橋村の項に「富士浅間社二。一ハ能満寺、一ハ西光寺持。」とある。
江戸後期には富士浅間社と呼ばれ、能満寺が別当であった。当社の創建は不詳。
社伝によると、承平元年(931)6月、夏山芽原浅間(当地)に雪が降り、
この山がいかにも富士山に似ているので、村人が登ってみると御神体と思われる石を拝した。
そこで富士の大神と崇め奉ってきたのに始まるという。芽原浅間社とも呼ばれていた。江戸中期になると、
盛んになった富士講の上板橋、中新井、下練馬の人々に崇敬され、
富士の溶岩を持ち帰って富士塚が造られ、「江古田富士」と呼ばれるようになった。
大正4年(1915)武蔵野鉄道(現西武鉄道)開通で、清戸道からの参道は中断された。
本殿は天保10年(1839)の建築だが大震災で損傷、大正13年に補修されている。
拝殿・幣殿は昭和27年、神楽殿は29年の新築、平成13年改修である。
境内石造物で古いのは、社殿前の文政2年(1819)と嘉永元年(1848)の燈籠、
植樹碑前の文化4年(1807)の燈籠、富士塚入口脇の文化9年(1812)の水盤である。
千川堤桜楓碑(大正4年)は、元は千川上水沿いの酒屋の前にあったが、
上水暗渠に伴う道路拡張により昭和27年当社に移された。
この碑は千川上水沿い7kmに桜と楓1200本を植えたことを記している。
なお境内には区内有数の大樹のケヤキが二本ある。(「練馬の神社」より)
■国指定文化財:江古田の富士塚について■
江戸時代中ごろから昭和初めごろにかけて、江戸八百八講はっぴゃくやこうと言われるように、
富士山や神奈川の大山に登拝とはいしに行く富士講や大山講などの
山岳信仰者の集まりが練馬区内にもたくさんありました。
富士講は、霊峰富士に登り浅間神社に参拝することを目的に結成されたものです。
年ごとに講の代表者として参拝するものを選び、必要な経費を講員全員で負担していました。
富士講がさかんになり、江戸時代終わりごろから富士山に似せた富士塚が各地に築かれました。
富士塚に登拝とはいすると、実際に富士山に出かけたのと同じ御利益があるとされていました。
江古田の富士塚は、高さ約8メートル、直径約30メートルの大きさで、通称“江古田富士”と呼ばれています。
江戸時代後期に下練馬村・中新井村・中村の各講により構成される「小竹丸祓講こたけまるはらいこう」によって
天保10年(1839年)に築かれたものと考えられます。大正12年(1923年)関東大震災によって損壊しましたが、
その後、復旧工事が行なわれ、塚の一部が富士山の溶岩で覆われています。都内の富士塚の中では規模の大きいものです。
昭和61年度区登録・昭和54年度国指定(練馬区 地域文化部 文化・生涯学習課 伝統文化係より)
号:浅間神社
祭神:木花佐久夜姫命
境内社:稲荷神社
相殿:-
祭日:例大祭9月15日
住所:東京都練馬区小竹町1-59-2
備考:江古田の富士塚、東新町氷川神社の兼務社
江古田浅間神社の由緒
■江古田浅間神社由緒書より■
当社の創建は不詳です。承平元年(931)六月夏山茅原浅間(当時)に雪が降り、
この山がいかにも富士山に似ているので村人が登ってみると
神体と思われる石を拝したことから「富士の大神」と崇め奉りたことに始まるといわれています。
「新編武蔵野風土記稿」の上板橋の項に「富士浅間神社・能満寺・西光寺侍」とあります。
また当社は「茅原浅間神社」という呼称があり、江戸中期になると
富士講の盛んな上板橋・中新井・下練馬の人々にも崇敬され「江古田の富士」
と呼ばれさらに親しまれるようになりました。
江戸後期には富士浅間神社と呼ばれ、能満寺が別当でした。
大正四年(1915)武蔵野鉄道(現西武池袋線)開通で江古田駅が設けられた為に
清戸道からの参道は中断されました。
本殿は天保十年(1839)の建築ですが大震災で損壊しましたが
大正十三年(1924)には補修しました。
拝殿は昭和二十七年(1952)に、神楽殿は二十九年(1954)に新築しました。
境内には練馬区指定の「大樹のケヤキ」(ネリマ区の名木)が二本あります。
当社は現在、板橋区東新町に鎮座する「氷川神社」の境外末社として奉斎されています。
なお、練馬区の密集住宅街地整備事業により平成四年度(1992)からの
主要生活道路の整備に伴い平成十三年(2001)度より当社境内地拝殿・神楽殿・社務所の新築、改修、
および玉垣・参道の整備を実施しました。(江古田浅間神社由緒書より)
■練馬区教育委員会掲示による江古田浅間神社の由緒■
「新編武蔵風土記稿」の上板橋村の項に「富士浅間社二。一ハ能満寺、一ハ西光寺持。」とある。
江戸後期には富士浅間社と呼ばれ、能満寺が別当であった。当社の創建は不詳。
社伝によると、承平元年(931)6月、夏山芽原浅間(当地)に雪が降り、
この山がいかにも富士山に似ているので、村人が登ってみると御神体と思われる石を拝した。
そこで富士の大神と崇め奉ってきたのに始まるという。芽原浅間社とも呼ばれていた。江戸中期になると、
盛んになった富士講の上板橋、中新井、下練馬の人々に崇敬され、
富士の溶岩を持ち帰って富士塚が造られ、「江古田富士」と呼ばれるようになった。
大正4年(1915)武蔵野鉄道(現西武鉄道)開通で、清戸道からの参道は中断された。
本殿は天保10年(1839)の建築だが大震災で損傷、大正13年に補修されている。
拝殿・幣殿は昭和27年、神楽殿は29年の新築、平成13年改修である。
境内石造物で古いのは、社殿前の文政2年(1819)と嘉永元年(1848)の燈籠、
植樹碑前の文化4年(1807)の燈籠、富士塚入口脇の文化9年(1812)の水盤である。
千川堤桜楓碑(大正4年)は、元は千川上水沿いの酒屋の前にあったが、
上水暗渠に伴う道路拡張により昭和27年当社に移された。
この碑は千川上水沿い7kmに桜と楓1200本を植えたことを記している。
なお境内には区内有数の大樹のケヤキが二本ある。(「練馬の神社」より)
■国指定文化財:江古田の富士塚について■
江戸時代中ごろから昭和初めごろにかけて、江戸八百八講はっぴゃくやこうと言われるように、
富士山や神奈川の大山に登拝とはいしに行く富士講や大山講などの
山岳信仰者の集まりが練馬区内にもたくさんありました。
富士講は、霊峰富士に登り浅間神社に参拝することを目的に結成されたものです。
年ごとに講の代表者として参拝するものを選び、必要な経費を講員全員で負担していました。
富士講がさかんになり、江戸時代終わりごろから富士山に似せた富士塚が各地に築かれました。
富士塚に登拝とはいすると、実際に富士山に出かけたのと同じ御利益があるとされていました。
江古田の富士塚は、高さ約8メートル、直径約30メートルの大きさで、通称“江古田富士”と呼ばれています。
江戸時代後期に下練馬村・中新井村・中村の各講により構成される「小竹丸祓講こたけまるはらいこう」によって
天保10年(1839年)に築かれたものと考えられます。大正12年(1923年)関東大震災によって損壊しましたが、
その後、復旧工事が行なわれ、塚の一部が富士山の溶岩で覆われています。都内の富士塚の中では規模の大きいものです。
昭和61年度区登録・昭和54年度国指定(練馬区 地域文化部 文化・生涯学習課 伝統文化係より)