なくもの哲学と歴史ブログ

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人類と「農耕」の始まり

2025-01-05 11:21:00 | 世界史

【農業】

 人類は、もともと狩猟採集生活をしていましたが、約11000年前に農業を始めました。それより少し後に始まったのが牧畜です。農業によって、食糧を安定的に確保でき、保存も可能になったので、人口が爆発的に増えました。農業を始めたきっかけは、気候変動によって動植物が減少したからだとされています。そうした状況では、人類は、自ら食糧を作らなければ、生き残れませんでした。ただし、農業をしようという意図があったわけではありません。野生の植物を栽培していたものが、いつの間にか品種改良されて、それが農作物になったとされています。

 最初に、農作物となったとされるのが小麦です。野生の小麦は、実がほとんどなく、収穫量も少なかったので、もともとは貴重なものでした。本来は、特別なご馳走で、仲間意識高めたり、対立を避けるためのものだったとされています。そもそも小麦は、栽培するのにあまり手間がかかりません。そのため、農作物には向いていました。ちなみに、すべての植物が、農作物に出来るわけではありません。農作物に品種改良出来るものは、種類が限られているからです。


【分業と共同作業】

 農業には、環境破壊という側面がありました。なぜなら、自然を人工的に変えているからです。農業は、代々受け継がれるものなので、一度始めたらやめられないとされています。また、農業は、農地に依存するものです。そのため、一つの土地に定住するようになりました。定住生活から、集落が誕生し、それが国家の基礎になったとされています。農業によって「王様」「軍隊」「専門家」など、農業以外の職業の人も養えるようになりました。それが分業の始まりになったとされています。農業というものは、共同作業をするものです。彼らの関係を調節する役目を果たしたのが指導者「王」だとされています。その指導者の正当性の根拠となったのが宗教です。人々は、宗教という世界観を共有することで、一つになっていたとされています。それを目に見える宗教的なシンボルとして、建設したのが神殿です。


【農業の弊害】


 もともと食糧を蓄えることは、不作の時に、自分たちが食べるためだったとされています。それが、だんだん売るための農業に変わりました。余った農作物を交換可能な「富」にしたからです。富によって、貧富の差が生まれ、不平等な社会になってしまいました。

 農業に適した土地というものは限られています。その土地を巡って隣人とナワバリ争いをするようにもなりました。人類が、人殺しをするようになったのは、農業を始めてからだとされています。狩猟採集をしていた時は、槍や弓矢のような武器は、動物を狩るためのものでした。それが、敵を排除するため、人に向けられるようになったとされています。

 農業による弊害は、健康面にも出ました。安定的な食糧を得るため、過酷な長時間労働が強いられるようになったからです。農業は、前かがみの姿勢で作業をします。そのため、腰痛になりやすくなりました。また、農耕民族は、同じ場所に密集して住みます。そのことが「菌」や「ウィルス」による伝病病が広がるリスクを高めました。また、一つの農作物を主食としたことで、食べる物の種類が少なくなり、栄養が偏って、体が小さくなったとされています。社会的側面では、単一作物に頼ったことで、それが不作になった時、社会が崩壊する危険性が出ました。



狩猟採集民族とは

2025-01-04 11:26:00 | 世界史

【狩猟採集民族】


 人類は、その全歴史の99%以上を狩猟採集民族として生活してきました。その時代を旧石器時代と言います。ちなみに農耕が開始されたのは、新石器時代からです。狩猟採集は、牧畜や農業が開始されるまでの原初的な生活様式とされています。食物は「果物」「動物」「魚」などと多様でした。栄養バランスが良かったので、成人男性の平均身長が、1777cmと比較的高かったとされています。これと同じレベルになったのは、20世紀に入ってからです。ただし、現代人でもアジア系の人は、そこまで背が高くありません。

 狩猟採集民族の社会は、基本的にみな平等でした。地位に上下がなく、上に立つ者がいなかったからです。首長はいましたが、特権的な権力はなかったとされています。集団の意志決定は、全体の合議で決められていました。社会には、平等化するプロセスが働いており、常に横並びの社会が維持されていたとされています。


【平等】

 狩猟採集民族は、全員が狩りなどに出かける狩猟採集者だったとされています。ただし、性別による役割の区別はありました。男が、動物をとらえる狩猟で、女が、植物を集める採集を担当したからです。獲物の取り分は、とった人もとらなかった人も、なんでも、平等に分けられました。何も獲れなかった人が、獲物をもらっても特に感謝もしなかったとされています。なぜなら、分け合うのが当然だったからです。この平等に分けるという価値観は、社会的な知恵だったとされています。その方が、結果的に生き残れる可能性が高まるからです。狩猟採集民族は、集団で狩りをしていました。そのために、必要になるのが仲間同士の団結力です。その和を乱さないように、獲物を独占することは禁止されました。ただし、どうしても狩りの腕には、個人の力量の差が出てしまいます。しかし、狩猟採集民族の間では、たとえ優秀なハンターでも、特別扱いされることがありませんでした。


【自然】

 狩猟採集民族は、仕事と生活の区別がなく、それらが一体化していた未分化な社会だったとされています。その仕事も、分業化されておらず、現在のように長時間労働ではありませんでした。狩りや採集というものは、食糧というエネルギー源を獲得すると同時に、自分のエネルギーも消費する行為です。そのため、うまく休息をとりながやった方が効率的だとされています。それは、動物も同じす。また、集団の全員が一斉に仕事を行うわけではありません。働いているのは、全体の65%だったとされています。

 狩猟採集民族は、生態系の一つの要素として、自然と完全に調和していました。狩りでも、必要以上に殺生することがなく、剰余食物が出ることがなかったとされています。狩猟採集民族には、食糧を貯蔵するという習慣がありませんでした。大昔は、獲物がたくさん生息しており、人口も少なかったので、蓄える必要がなかったからです。そのため、その日暮らしの不安定な生活だったとされています。


ネアンデルタール人について

2025-01-04 11:10:00 | 世界史

【ネアンデルタール人】

 ネアンデルタール人は、ホモサピエンスの亜種で、旧人とも呼ばれています。ホモサピエンスとは、今の人類のことです。ネアンデルタール人は、約4万年前の氷河期時代、ユーラシア大陸のヨーロッパを中心に繁栄していました。そのため、はじめに発見された場所もドイツです。ホモサピエンスの全DNAのうち、約2%は、ネアンデルタール人由来だとされています。ただし、ネアンデルタールのDNAを持つのは、アフリカ系以外のアジア、ヨーロッパの人たちだけです。ホモサピエンスは、ネアンデルタール人と中東の森で出会い、混血したとされています。


 ネアンデルタール人は、筋肉質なレスラーのような体つきでした。成人男性で、平均身長が約165センチ、平均体重80キログラムだったとされています。ネアンデルタール人が生きていた時代は氷河期でした。その寒さに適応するため、アレンの法則で、胴長短足になったとされています。なぜなら、胴長短足の方が、熱の放散を防ぎやすいからです。また、寒い時、筋肉を震わせると熱が出るので、筋肉質なことも寒冷地向きでした。ネアンデルタールは、白い肌だったとされています。それは、日射量が少ない地域への適応でした。

【道具と狩り】

 ネアンデルタール人が、初めて人工的に火を起こしたとされています。また、優れた工人だったので「ペンダント」「ブレスレット」「動物の毛皮の服」「石器」「握斧」などの道具を作ることが出来ました。 

 また、ネアンデルタールは、狩の名人だったとされています。力が強かったので、3mの重い槍で、大型哺乳類を狙うという肉弾戦の狩りをしていました。ちなみに、飛び道具は、使わなかったとされています。ネアンデルタールは、優れたハンターだったので、新たに道具を作り出す必要性がありませんでした。そのため、道具は、あまり進化しなかったとされています。逆にホモサピエンスは、弱かったので、道具を進化させていきました。最終的に、ホモサピエンスが生存競争に勝ったのは、技術力の差が要因だったとされています。ネアンデルタールの狩りは、リスクが高く、30代までに、ほとんどの者が命を落としました。


【ホモサピエンスとの関係】

 ネアンデルタールは、人類「ホモサピエンス」とライバル関係にありましたが、直接は戦わなったとされています。当時は、まだ戦争という発想がなかったからです。ネアンデルタール人は、血縁関係のある20人くらいで集団を作り、それらが個別に生活をしていました。遊牧民族のように、小さな家族単位の集団で、各地を彷徨っていたとされています。総人口も、少なかったので、長距離ネットワークが築かれることがありませんでした。

 ネアンデルタールの脳容量は、ホモサピエンスより、10%以上大きく、知能は同等だったとされています。そのため、ホモサピエンスほど複雑ではないが、生きる上で必要な言葉は話すことは出来ました。また、記号を使ってコミュニケーションをとることが出来き、抽象的に考える能力はあったとされています。高い精神性を持ち、死者を埋葬する風習もありました。



漢の初代皇帝「劉邦」

2024-10-15 19:31:00 | 世界史

【劉邦】
 中国を統一し、漢王朝の初代皇帝となったのが劉邦です。劉邦「高祖」の廟号を「太祖」と言います。廟号とは、死んだ後に付けられる名前のことです。劉邦は、普通の農民出身で、まともに読み書きも出来ませんでした。名前の「邦」は、お兄ちゃんを表す言葉だとされています。劉邦は、面長で、鼻が高く、立派な髭をしていました。そのような顔を竜顔と言います。劉邦が、まだ母親のお腹の中にいた時のことです。母親が、龍の夢を見たので、劉邦は、赤龍の子だとされました。赤龍の赤は、漢王朝の色だとされています。

 若い頃の劉邦は、実家の農業を手伝わず、侠客のような生活をしていました。親分肌で、器が広かったので、人望はあったとされています。そのため、なんとなく人が集まってきました。劉邦は、酒と女を好んだとされています。酒屋に行く時は、よく金を持たずに行っていました。それでも、劉邦の周りに人が集まったので、売り上げには貢献したとされています。劉邦は、中年期まで、ろくな官職がなかったのに、大望だけはあったとされています。例えば、始皇帝が巡行してきた時に、あのようになりたいと言ったからです。劉邦には、人の話を聞くという取り柄しかなかったのに自然と超優秀な人材が集まってきました。例えば「韓信」「張良」「陳平」などです。特に張良の助言は、無条件で、よく聞き入れたとされています。

【鴻門の会】

 劉邦は、もともと項羽の元で、反秦活動をしていました。その項羽の主君だったのが楚王「懐王」です。懐王は、最初に関中に入った者を、その地の王にすると言いました。関中とは、秦の首都「咸陽」を中心とした一帯のことです。その関中に一番乗りをしたのが劉邦でした。当時、秦の皇帝だったのが「子嬰」です。子嬰は、劉邦に降伏して、玉璽を差し出しました。劉邦は、宮殿の女と財産に目がくらんだとされています。それでも、関中では、掠奪行為を行わなかったので、民衆には、人気がありました。

 ただし、秦の主力と戦っていた項羽の方です。そのため、劉邦が関中に先に入ったことに怒ったとされています。そこで劉邦は、項羽の叔父の「項伯」を通じて、謝罪することにしました。項伯にそれを頼んだのは、劉邦の軍師「張良」と項伯が義兄弟だったからです。この時、劉邦が、項羽に謝罪に行ったことを「鴻門の会」と言います。項羽の軍師「范増」は、剣舞の席で、劉邦を殺そうとしました。しかし、周りが助けてくれたので、逃げることが出来きたとされています。

【楚漢戦争】


 項羽は、秦を倒し、諸侯を王に任命しました。劉邦が、任されたのが道が険しい辺境の地「巴蜀」です。巴蜀は、西「左」側にあったので、それが「左遷」の語源になったとされています。この頃、劉邦軍に加わったのが、後に漢の大将軍となる韓信です。

 項羽は、主君の懐王を暗殺しました。劉邦が、その反逆者を討つという名目で起こしたのが「楚漢戦争」です。劉邦は、項羽が居ない隙に、本拠地の彭城を56万という大軍で落としました。しかし、劉邦は、油断しきっていたので、すぐに彭城を奪還されてしまいます。この時、劉邦の父と皇后が捕虜となり、自身も子供を馬車から投げ捨ててまで逃亡しました。その子供は、劉邦の側近「夏侯嬰」が拾ったので助かっています。

 劉邦は、戦では項羽に勝てないので、内部分裂工作をすることにしました。そこで、頼りにしたのが策士の陳平です。陳平は、離間の計によって、范増を失脚させました。そのため、項羽は、徐々に孤立していったとされています。劉邦と項羽が、天下を半分に分けることで講和した時、それを破って攻撃するように助言したのも陳平でした。それを陳平とともに進言したのが軍師の張良です。張良は、劉邦が最も信頼していた軍師だとされています。

【垓下の戦い】
 張良の策で、劉邦が項羽を引きつけ間に、韓信の別働隊が北方諸国を平定しました。それを「北伐」と言います。その時、韓信は、占領した国の治安維持のため、斉の正式な王になりたいと言いました。その斉という国は、大国だったとされています。劉邦は、韓信に激怒しましたが、張良と陳平がそれを抑えました。なぜなら、今、韓信を敵に回すと厄介だからです。項羽は、劉邦に一騎打ちを申し込んだことがありました。しかし、劉邦は、それを笑って受けなかったとされています。劉邦と項羽の最後の決戦となったのが「垓下の戦い」です。垓下の戦いで、補給路を断たれた項羽軍は、食料と兵士が減り続けました。それでも、項羽だけは打ち取れなかったとされています。しかし「四面楚歌」状態となった項羽は、観念して自害しました。

【粛正】
 劉邦は、中国を統一して、漢王朝を開きました。その漢王朝の首都となったのが「長安」です。劉邦は、戦後の論功行賞で、蕭何を勲功第一としました。蕭何の功績は、劉邦に食料と兵士を送り続けたことです。劉邦は、その蕭何を「相国」に任命しました。相国とは、漢王朝における最高職です。皇帝となった劉邦は、家臣たちを疑うようになり、特に「韓信」「彭越」「英布」の3人を警戒しました。なぜなら、彼らが、大きな軍事力を持っていたからです。韓信と彭越は、皇后「呂雉」によってとらえられ、謀反の疑いで処刑されました。そのため、呂雉は、中国「三大悪女」の1人に数えられています。英布は、2人の処刑を知り、次は、自分の番だと考え、反乱を起こしましたが、劉邦に打ち取られました。



西楚覇王、項羽

2024-10-11 19:28:00 | 世界史

【項羽】
 項羽は「西楚の覇王」と呼ばれています。その一族は、楚の将軍職を務める家柄でした。楚は、春秋戦国時代において、秦に次ぐ大国だったとされています。世間では、秦を滅ぼすとしたら、楚の人だと言われていました。秦を苦しめた楚の将軍「項燕」は、項羽の祖父だとされています。項羽は、父親がいなかったので、叔父の項梁によって養育されました。項梁から、武術や学問を習いましたが、あまり熱心ではなかったとされています。なぜなら、文字などは、自分の名前をかければよく、剣では、1人しか倒せないと思ったからです。そこで、万人を相手にする方法として、兵法を習いたいと言いました。

 項羽には、楚への強い愛国心があったとされています。そのため、秦に対する復讐心が、人一倍ありました。始皇帝が、巡行してきた時、それにとって代わってやると言ったとされています。巡行とは、皇帝が、全国を巡回することです。

【性格と戦術】
 項羽は、直情的で、短気でしたが、謙虚な面もありました。例えば、叔父の項伯や、軍師の范増の意見をよく聞いたからです。項羽は、正義感が強かったので、若者には人気があったとされています。ただし、プライドが高く傲慢でした。そのため、人望はなかったとされています。また、部下の扱いも不公正だったので、不満を持つものも多くいました。項羽は、体が大きく、力が強かったとされています。戦場では、一騎当千の活躍で、常に敵の数が多い状況でも勝ってきました。項羽は、戦で一度も敗れたことがなかったとされています。そのため、中国史上、最強の武将と呼ばれました。項羽は、野戦が得意で、戦い方は、あまり策に頼らず、勢に任せたものだったとされています。戦術にも計画性がなく、長期戦は苦手でした。

【鴻門の会】
 項羽は、秦に対する反乱「陳勝呉広の乱」に参加しました。陳勝呉広の乱とは、中国最初の農民反乱のことです。項梁には、人望があったので、反秦勢力が集まってきました。それが、一大勢力になったとされています。項梁は、楚の王族を探し出し「懐王」として立てました。当時の秦の正規兵は、強かったとされています。そのため、項梁は、秦の名将「章邯」との戦いで戦死しました。その後も、項羽は、楚の将軍として戦います。懐王は、最初に関中に入った者を関中王にすると言いました。関中とは、秦の首都「咸陽」一帯のことです。1番先に関中に入ったのは劉邦でした。その劉邦は、関中で掠奪を行わなかったので、民衆には人気があったとされています。しかし、項羽は、劉邦に怒りました。なぜなら、秦の主力と戦っていたのは、項羽の方であり、関中王になるのは自分だと思っていたからです。

 劉邦の軍師「張良」と、項羽の叔父項伯は、義兄弟だったので、劉邦は、その項伯を通じ、項羽に謝罪することにしました。それを「鴻門の会」と言います。項羽の軍師「范増」は、剣舞の席で、劉邦を殺そうとしました。しかし、劉邦の家臣「樊噲」が乱入してきたので、劉邦は逃れることが出来たとされています。

 咸陽に入った項羽は、阿房宮を焼き、秦の皇帝「子嬰」を殺しました。子嬰は、宦官の趙高を討ったので、民衆に人気があったとされています。なぜなら、趙高が秦の悪政の原因だとされていたからです。このことで、項羽の評判は悪くなりました。

【楚漢戦争】

 項羽は、秦を三年で滅ぼし、功績のあった者を各地の王に任命しました。その中で、劉邦が任じられたのが西「左」にある巴蜀の地「漢」です。この事が「左遷」の語源だとされています。項羽は「西楚の覇王」を名乗り、楚の「彭城」を本拠地としました。この時、まだ項羽の主君として存在していたのが懐王です。項羽は、その懐王を暗殺しました。それを知った劉邦が、主君殺しを討つという名目で起こしたのが「楚漢戦争」です。

 劉邦は、項羽が留守の時、56万の大軍で彭城を占領しましたが、油断したため、すぐに奪還されています。この時、劉邦の妻と父は、捕虜となり、自身も馬車に乗っていた子供を投げ捨ててまで、必死に逃亡しました。ちなみに、その子供は、夏侯嬰という劉邦の側近が拾い上げています。

【垓下の戦い】

 劉邦は、項羽に対して連戦連敗でした。それでも、軍を立て直せたのは、側近の蕭何が兵糧と兵士を送り続けていたからです。劉邦は、まともに戦っても項羽には勝てないので、策謀に長けた陳平の内部分裂工作で、范増を失脚させました。劉邦が、最も信頼したのが軍師の張良です。その張良の策で、劉邦が項羽を引きつけている間に、韓信の別働隊が諸国を平定しました。そのため、韓信が、一時的に第三勢力になったとされています。項羽は、その韓信に同盟を持ちかけました。しかし、韓信は、それを断ったとされています。なぜなら、劉邦に恩義を感じていたからです。

 項羽軍は、補給路を断たれ、兵糧がなくなり、兵士の数も減り続けていました。楚漢戦争、最後の戦いとなったのが「垓下の戦い」です。韓信に追い詰められた項羽軍は、28騎まで減りました。それでも、項羽だけは、どうしても打ち取れなかったとされています。劉邦は、項羽を取り囲んで、夜中に楚の歌を歌わせました。それを「四面楚歌」と言います。それを聞いた項羽は、楚の人たちが劉邦側についたと思ったとされています。観念した項羽は「天が私を滅ぼす」のだとして、寵愛していた「虞美人」とともに自害しました。