なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
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福沢諭吉の「学問のすすめ」

2023-09-23 22:13:00 | 日本の思想

【実学】 

 福沢諭吉が、影響を受けたのが、イギリスの「功利主義」です。功利主義から、これからの日本人は、西洋の実用的な学問を学ぶべきだとしました。実用的とは、実生活に役立つもののことです。そうした学問を「実学」と言います。実学「じつがく」とは、合理的な近代諸科学の事です。それに対して、儒教などの東洋の学問を「虚学」だとしました。儒教は、上下関係を守り、伝統的なものを重んじます。そのため、社会が発展する必要性がありませんでした。今まで通り、既存の慣習に従えば良いからです。しかし、現実の世界は、日々発展しています。福沢諭吉は、それに合わせて、学問も進歩すべきだと考えました。 

 【脱亜入欧】

 当時は、西洋列強がアジアに進出していた時代です。福沢諭吉は、そのことに危機感を覚えていました。そこで目標としたのが、西洋の近代的な文明です。アジア諸国との関係を断ち、近代的な西洋文明の仲間入りをしようとしました。それを脱亜入欧「だつあにゅうおう」と言います。福沢諭吉は、主著の「文明論概略」の中で、アジア的な思想や伝統を批判しました。脱亜入欧の目的は、欧米列強の侵略から日本の独立を守ることです。そのためには「富国強兵」が必要不可欠でした。富国強兵とは、国を富ませ、軍事力を強化することです。そうした国を作るために必要なのが「国家権力」と「一般市民」の調和でした。それを「官民調和」と言います。 

 【独立自尊】 

 それまでの 日本人は、国事に関与しようとせず、政府に頼り切っていました。福沢諭吉は、そうした現状を「日本には、政府ありて国民なし」と表現しています。日本人がそのようになったのは、江戸時代までは、幕府に政治を任せていれば良かったからです。福沢諭吉は、国を改善するには、まず人々の心を変え、その上で、政府を改革していくべきだと考えました。

 そして、一般市民も「自主独立」の精神を持つべきだとしています。自主独立とは、他人や政府に依存しないで、何事も自分の判断と責任のもとで行うことです。福沢諭吉は、自主独立するだけではなく、人間としての品格も忘れるべきではないとしました。そのことを「独立自尊」と言います。「学問のすすめ」にも「一身独立して、一国独立す」と書かれています。福沢諭吉にとって「一身独立」と「一国独立」は不可分のものでした。学問のすすめは、一般市民に向けて書かれた啓蒙的な学問書です。当時、約20万部というベストセラーになりました。 

【天賦人権論】 

 福沢諭吉は、中津藩の下級武士の生まれでした。当時の下級武士は、身分が低くかったとされています。そのため、子供の頃は不遇でした。そうした境遇から出たのが「門閥制度は、親の仇でござる」という言葉です。そのため、福沢諭吉は、封建的身分制度をなくそうとしました。学問のすすめの冒頭にも「天は人の上に人を作らず、人の下に人を造らずと云り」と書かれています。これは、人間が本質的に平等で、生まれながらに「自由」や「幸福追求の権利」を持っているという意味です。それを「天賦人権論」と言います。天賦人権論「てんぷ」は「自由民権運動」の理論的根拠になりました。近代的な国家とは、自由で平等な一般市民の同意によって設立された政府のことです。明治政府も、建前上、そのような国家でなくてはいけませんでした。



ニーチェの「権力への意志」

2023-09-23 09:53:00 | 西洋哲学

【権力への意志】 

 ニーチェは、世界の生成を「権力への意志」という哲学用語で、説明しました。権力への意志とは、全ての生起に内在している、ただ一つだけの創造的な力のことです。その力が世界の「運命」を決めています。権力への意志には、始めと終わりがありません。それは、常に在ったし、これからもあり続けるものです。権力への意志には、目的や起源がありません。 もし、それらがあるなら、すでに達成されていたからです。権力への意志は、個別具体的な存在ではありません。存在全体の根本的な「性格」のことです。 

 【エネルギー】 

 権力への意志は、一定量の力として「限界」と「形態」を持ちます。ニーチェは、それを物理学の「エネルギー」のようなものだと考えました。エネルギー保存の法則では、エネルギーは、相互に変換されます。ただし、その全体量は常に一定です。そのため、新たに生じたり、無くなることがありませんでした。権力への意志も、エネルギーと同様、ただ形を変えるだけです。ニーチェは、それが、この世界を作っているとしました。権力への意志とは、現実そのもののことです。この世界は、それ以外の何者でもないとしています。

 【ディオニュソス】 

 権力への意志は、疲れを知らない活動的な「形成力」です。そのため、凝固停滞することがありませんでした。権力への意志は、永遠の生成の中に、常に自分自身を表現します。ニーチェは、権力への意志を、ギリシャ神話の酒神「ディオニソス」に例えました。ディオニソスは、永遠の破壊と再生を象徴する非道徳的な神です。そのため、世界を完成させようとしませんでした。ディオニソスとは、永遠の「生成の快楽」そのものだからです。その無尽蔵の創造力で、生成のうちで永遠に戯れていました。生成のうちにあっても、ディオニソスだけは、唯一変わらない同一のものです。ディオニソスは、人間を個別化の束縛から解放し、全てを一つにするとされています。

 【生】 

 ニーチェは、普遍的な生を生きることによって、個人的な生を救う人間を「ディオニュソス的な人間」といいました。また、そうした生き方を「不死のために死せる」と表現しています。権力への意志とは「生」自身であり、生の根元的な創造力のことです。生は、生長欲を本質としており、より強いものになろうとします。それは、権力への意志を強めるものです。生は、権力への意志の「表現様式」として、無限の変容を体現しています。 

 【価値基準】 

 権力への意志は、ニーチェの新しい価値基準です。それまでの西洋哲学では、絶対的な評価基準があると想定されて来ました。しかし、価値とは、相対的なものであり、程度の差にすぎません。権力への意志は、何かを固定的に評価するのではなく、どれぐらいの「距離」が離れているかで判断します。全てのものに、それ自体の固有の価値はないからです。ニーチェは、絶対的な真理というものはなく、それぞれの解釈だけがあるとしました。この新しい価値の評価方法を「遠近法的解釈」と言います。その価値を決めるものは、権力量です。権力量によって順位が決まります。順位とは、権力の度合による位置関係のことです。そもそも世界には、相関関係による配置しかありません。 そこから、無数の解釈が生み出されています。ニーチェは、解釈もまた、力への意志の一つの形式だとしました。