【実学】
福沢諭吉が、影響を受けたのが、イギリスの「功利主義」です。功利主義から、これからの日本人は、西洋の実用的な学問を学ぶべきだとしました。実用的とは、実生活に役立つもののことです。そうした学問を「実学」と言います。実学「じつがく」とは、合理的な近代諸科学の事です。それに対して、儒教などの東洋の学問を「虚学」だとしました。儒教は、上下関係を守り、伝統的なものを重んじます。そのため、社会が発展する必要性がありませんでした。今まで通り、既存の慣習に従えば良いからです。しかし、現実の世界は、日々発展しています。福沢諭吉は、それに合わせて、学問も進歩すべきだと考えました。
【脱亜入欧】
当時は、西洋列強がアジアに進出していた時代です。福沢諭吉は、そのことに危機感を覚えていました。そこで目標としたのが、西洋の近代的な文明です。アジア諸国との関係を断ち、近代的な西洋文明の仲間入りをしようとしました。それを脱亜入欧「だつあにゅうおう」と言います。福沢諭吉は、主著の「文明論概略」の中で、アジア的な思想や伝統を批判しました。脱亜入欧の目的は、欧米列強の侵略から日本の独立を守ることです。そのためには「富国強兵」が必要不可欠でした。富国強兵とは、国を富ませ、軍事力を強化することです。そうした国を作るために必要なのが「国家権力」と「一般市民」の調和でした。それを「官民調和」と言います。
【独立自尊】
それまでの 日本人は、国事に関与しようとせず、政府に頼り切っていました。福沢諭吉は、そうした現状を「日本には、政府ありて国民なし」と表現しています。日本人がそのようになったのは、江戸時代までは、幕府に政治を任せていれば良かったからです。福沢諭吉は、国を改善するには、まず人々の心を変え、その上で、政府を改革していくべきだと考えました。
そして、一般市民も「自主独立」の精神を持つべきだとしています。自主独立とは、他人や政府に依存しないで、何事も自分の判断と責任のもとで行うことです。福沢諭吉は、自主独立するだけではなく、人間としての品格も忘れるべきではないとしました。そのことを「独立自尊」と言います。「学問のすすめ」にも「一身独立して、一国独立す」と書かれています。福沢諭吉にとって「一身独立」と「一国独立」は不可分のものでした。学問のすすめは、一般市民に向けて書かれた啓蒙的な学問書です。当時、約20万部というベストセラーになりました。
【天賦人権論】
福沢諭吉は、中津藩の下級武士の生まれでした。当時の下級武士は、身分が低くかったとされています。そのため、子供の頃は不遇でした。そうした境遇から出たのが「門閥制度は、親の仇でござる」という言葉です。そのため、福沢諭吉は、封建的身分制度をなくそうとしました。学問のすすめの冒頭にも「天は人の上に人を作らず、人の下に人を造らずと云り」と書かれています。これは、人間が本質的に平等で、生まれながらに「自由」や「幸福追求の権利」を持っているという意味です。それを「天賦人権論」と言います。天賦人権論「てんぷ」は「自由民権運動」の理論的根拠になりました。近代的な国家とは、自由で平等な一般市民の同意によって設立された政府のことです。明治政府も、建前上、そのような国家でなくてはいけませんでした。
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