私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

愚痴ってやつは

2011-11-16 | 6悩む
愚痴を聞かされることが多い。

そして、聞かされる愚痴に対する許容量が少なくなっている自分を感じる。

愚痴を披露する人々は、状況を改善したい思いがあって愚痴っている訳ではない。
大抵の場合、その状況に甘んじており、好ましからざる環境に身をおいている自分を、哀れで可哀そうな存在であると認めて欲しいのだ。

愚痴を聞かせる相手に求めているのは、慈悲であり、自分に対する慈しみと関心である。

それ故、愚痴を聞かされた相手の胸に残るのは、なんとも気持の悪いもやもやとした嫌な感覚。
本人に状況を改善する意思はないのだから、グロテスクで救いのない映画を見た後のような嫌悪感だけが残る。

今現在の私は愚痴らない。
(昔は、カタルシスで愚痴ることがあったな…でも、相手は選んだ。)
改善したい状況があるのであれば、対策を講じ、事態の打開につながる行動をとる。

自分が甘んじている余り好ましからざる環境があっても、そこに居続けるのは私の意思であるので、好ましからざる環境に起因する不都合や愉快でない状況については語らない。

閉口するのは、私が納得づくで生きているのに、自分についての愚痴を一通り聞かせたあとで、私の生活環境のなかから、不都合に違いない事象をほじくり出し、それについての私の愚痴を引き出そうとする輩の存在。

彼女らは、一方的に愚痴を投げかけた後で、自分たちの優位性を保つべく私のあらさがしをする訳だ。

いいから放っておいて。

自分の精神的均衡を保つ為、他人のあらさがしをしなくてはならないぐらいなら、私に愚痴らないでと切実に思う。
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