私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

歴史的円高下の地産地消

2011-09-26 | 5考える
歴史的円高だ。

通販サイトやテレビショッピングでは輸入製品のセールが目白押し。

日本の株式市場も外資建であれば少々の下落は為替でカバー出来るわけで、全面的円高に株安、債券安、金安と雪崩を打っている現状には窮するしかない。

しかし、円高による輸入差益はどこかで発生してくるわけで、帳尻のあう局面もあるのだろうが、厳しいねぇ。

農産物で地産地消が言われて久しいが、工業製品についてもあえて地産池消を旨としたい。
保護主義ではないのだ。
我が国の材料で、我が国の職人によってつくられた製品に囲まれる暮らしは、贅沢で最もストレスのない暮らしだ。

まだ十分使えるが、外材で造られ、天板のセンターでたわみの生じた大陸産ユニット型の机を、純国産の製品に買い替えることにした。
そこの製品であれば、少々幅広の天板であってもたわみが生じることはまずない。

現在使用している机の四倍の価格であったけれども、生涯使い続けるだろう机だ。

ささやかだけれど、人生を折り返した最近、漸く芽生えつつある愛国心の私なりのもっとも素直な表現方法だ。
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階層と地位

2011-09-24 | 5考える
お彼岸の墓参りを済ませた休日、ぼんやりチャンネルサーフィンをしていたが、波にのりきれずとうとう放送大学の番組にまで行き着いてしまった。

いつもは、なにかしら古めかしい印象でスルーしてしまう番組なのだが、ちょうど社会学の専門講座で、社会階層と社会的地位についての講義がなされていて、興味深かったのでそのまま見続けた。

社会階層と地位を決定づける分類は、職業によることが多いらしい。

現代日本においては300ほどの職業分類がされているそうだが、それらの階層と地位を左右するのは収入による側面と威信による側面だという。

収入も高く、社会的威信もある職業であれば当然社会的階層も地位も高いということになるが、収入は高いが社会的威信は無い場合や、収入はそれほどではないが社会的威信はしっかりとある場合、収入と威信による基準の不一致が起こり、その階層や地位の評価は複雑なものとなるようだ。

羽振りがよい事業者と、収入は平均的だが武士はくわねど高楊枝的意識の公務員が、大抵相容れないのも、何に価値を置くかということの相違によるのだろう。

あれこれの人間関係を思い起こしながら、収入にも威信にもよらない第三の価値基準といったものは存在しないのだろうかと思いを巡らしている。
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収縮どこまで?

2011-09-23 | 6悩む
日本がゼロ金利状況に陥って久しい。

10年預金しておけば、元利合計は少なくとも1.5倍。
金利の良い時代など2倍になっていたのだから、昨今の金利計算をしているとクラクラしてくる。

家制度も崩れ、公的社会保障もあてにならないとなれば、個人資産の運用に精いっぱい走るしかない。

膨大な財政赤字を抱える我が国が心配でならず、分散投資の名のもと、リスク回避の各国通貨建投資信託などになけなしの私財を投入するも、ここへきての歴史的円高だ。

値崩れ現象が雪崩をうっている。

世界経済の収縮にあわせて、我が家の財布も収縮し続ける。
どこまで収縮するだろう。
しわしわになって、もうこれ以上小さくなれない石つぶてのようになってしまうまで縮んでゆくのかもしれない。


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おひとりさまの体質③

2011-09-15 | 5考える
他人に甘えるのが嫌だ。
他人に甘えられるのも苦手だ。

自分自身のことは、ギリギリまで自分で片づけたいと思うし、実際、今まで大抵のことを自分一人で処理して来た。

簡単に他人にお願いしてしまえる体質の方に接すると、羨ましく思える半面、自身の美学と相容れないのでその方との人間関係に距離を置かざるを得なくなる。

そうした私の行動パターンを、危険だという方もいる。

そうかもしれない。

助けを求めねばならない時には、もうどうしようもない状況に陥っているのは想像できる。
わかっているが、生き方の美学は譲れない。

私の生き方を「のほほんと生きている」と見る人も多いが、「のほほんと生きている」という風にしか他人には見せたくない。

民話の「鶴の恩返し」は、非常に日本的な民話だと思うが、人知れず自らの羽を抜いてはたを織る鶴(つう)の姿は、私の生き方の美学に通じる。
苦心する姿や不安に揺れ動く優柔不断な姿を他人に見せたくはない。

それ故に妬みやヤッカミをかい、理不尽な対応を受けることもあるが、それがどうした…と思う。

非常に利己的で、ひとりに慣れている人生なのだとつくづく感じている。
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おひとりさまの体質②

2011-09-07 | 5考える
負わねばならない責任から解かれ、身軽なおひとりさまになってから、とかく投げかけられるようになった問いかけがある。

「一人で淋しくはないか?」
「何かあった時不安ではないのか?」
「生活をどうするのか?」
「まぁまぁ、よくなさる」
といったもの。

私よりも年配の女性から問われることが多いが、彼女らにしてみれば、自分が人生をかけて築き守ってきた家族や卑属の全くいない生活は、想像するだに恐ろしく、心細く思われるのだろう。

私は、いずれの問いかけにも笑いながら返す。
「仕方ないよ、自分で出来ることはきちんとしているつもりだから、それが出来なくなったらもう仕方がない」
「最期まで、自分で自分のことが出来る人生でありたいよ」
「そのあとは、もうどうしようもない」と。

日本人は「不安遺伝子」とよばれる遺伝子をもっとも高率で持ち合わせている民族であるそうだが、厳しい自然環境に対応する為、それは高率に備えなくてはならなかった遺伝子であるかもしれぬ。

私にも「不安遺伝子」はあるだろうと思うのだが、漠然と不安を覚えることはあっても、具体的な不安と淋しさに縛られることは昔からあまりない。
淋しさや不安をより強く意識して来たのであれば、生物的本能の後押しがあったしかるべき時期に、折り合いのつけやすい環境に育った相手と所帯をもち、その生活を築き維持しようと頑張っただろう。

不安や淋しさに余り捕われず、もっと違うものにせき立てられて人生の様々な局面を越えて来たので、今こうしておひとりさまをやっている訳だ。

守るもべきものも、責任を持たねばならない存在もいないので、いざという時はもう仕方ない。
「死んだ後のことは知らない」とつぶやいても非難されることもあるまいと思っている。

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おひとりさまの体質①

2011-09-01 | 5考える
「女は女に生まれるのではなく女になるのだ」とはボーボワール女史のお言葉であるが、近頃思うのは「おひとりさまはおひとりさまになるのではなく、自らおひとりさまを選択しているのだ」ということ。

おひとりさまという言葉でくくられる人たちは増加の一途。
様々な様態のおひとりさまがいて、特に高齢者のおひとりさまについては、人生の終末期に色々な支障が生じるケースが量としてまとまったものになってきているのだろう、地方でも士業の方たちを中心に、高齢のおひとりさまをサポートする事業の立ち上げが始まっている。

高齢期にはまだもう少し間があるというおひとりさまには、地域社会やおひとりさま同士での連携をつくっておくことなどが言われているようだが、おひとりさま同士の連携や連帯は存外難しいものだ。

これは私の経験だが、似通った(基本的には皆恐ろしく個性的でありピンポイントの共通項があるにすぎない)幾人かのおひとりさまとの交流を断つことがある。

事情はケースごと異なるのだが、自分も含めてどのおひとりさまも非常にデリケートで頑ななのだ。

長く付き合いのある友人おひとりさまの場合は、時間やこちらの都合お構いなしで、まるで家族のようにボーダレスで頻繁に連絡をしてきた。
自らは非通知で電話をかけるが、相手からの電話は番号通知でないと受けない…という非常に身勝手でデリケートなタイプ。
こちらの状況を推し量ることはなく、私が話したことも余り記憶してくれてはいない。
ただだらだらと、あまり意味のない彼女周辺の卑近なあれこれを頻繁に聞かされることに、もう長い間辟易としていたのだ。

私に家族がいない気安さと、一方で抱えているだろう心細さを察して、家族同様に対応しようという想いは感じられたが、私は彼女に家族としての期待をしてはいない。

長くおひとりさま生活を続けていると、自分だけの生活リズムやスタイルが確立され、それを変革したり乱したりされることを嫌う傾向がある。

ある時とうとう我慢ができなくなり、時間を選ばず繰り返される余り重要でないコンタクトを迷惑だと伝え、私は静かで気ままなおひとりさま生活を取り戻した。
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