「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

知らぬが仏

2010-03-21 | 日記
多くは「哀れみあざける」と言う意味で使われることが多いのだが、科学技術が発達した現代では、本来の意味(知ればこそ腹も立つが、知らざれば仏のように平穏な境地でいられる)で使う必要が有ると思うのだが・・・・。
インターネットの発達で「情報化時代」と言われるようになり、その結果として「瞬時に世界中の情報がわかる」と言うことにはなったのだが、考え方を変えてみると「知ってしまったための不幸」と言う事も起きてくると思うのだが・・・・。
私が子供だった頃は、ラジオと新聞が主な情報源で、入ってくる情報は極めて少なく、自分たちがどのような状況に置かれているかなど、比較対照するものも少なくそれ程気にもしてはいなかったのである。
其れ故か、今あるような便利な物など何も無いと言うのに、「自分たちは貧しい(不幸だ)」などと言う考えなど殆んど持つ事もなく、正に「知らぬが仏」の境地であったのだろう。
「格差」と言うものも、今より当時のほうが大きかったと思うのだが、今のように広い範囲の情報は殆んど入らず、テレビ、ネットなどの情報源もないのだから気にしようもなく、それほど惨めな気持ちにもならずに済んだのである。
このように考えれば、「情報化社会→情報過社会→情報禍社会」と言う図式が成り立ち、「有り余る情報が人々を不幸にする」と言う事も起きてくるのである。
更に気をつけなくてはいけないことは、情報化時代とは言うものの「その情報量は一人の人間では処理不可能」なほど多く、「有り余り情報に振り回される」と言う結果にもなってしまうのであるが、それ以上に困ることは「悪意を持った情報に洗脳されてしまう」と言うことである。
「自分はそんなことはない」と思う人が殆んどだろうが、悲しいかな、私の目から見れば「殆んどの人は情報依存症になっている」と言う状態で、有り余る情報(その中には情報操作されたものも多いが)により、「冷静に物事を判断する能力」を奪われてしまっているのである。
大河ドラマで坂本竜馬が取り上げられている事も有り、「坂本竜馬の再来」を望む人も多いようだが、今の時代に坂本竜馬が現れたとしても、最終的には「自分の利益だけを考える国民によって抹殺される」と言うのがおちであろうが、この事にしても、冷静に考えれば「今現在も竜馬のような人はいる」と考えるべきだが、その存在を抹殺しているのは「私利私欲に走る国民」ではないだろうか。
このように考えれば、今の世に竜馬が現れ行動したとしても「都合の良い結果は得られない」と考えるべきだろう。
コメント
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