その学校の名前は、東京都中野区立江古田小学校。
別に悪い事件などで新聞に載ったわけではなく、久しぶりに見る学校の名前に懐かしさがこみ上げてきたのです。
この小学校がある地域はかなり裕福な家庭も多く、私の同級生には「大地主(昔の庄屋)」の家の子もおり、卒業してかなりたってからの話ではあるが、住んでいた大きな茅葺き屋根と、「時価数十億」とも言われる土地を、「文化施設として利用する」と言うことを条件に中野区に寄付しているのです。
他にも裕福な家庭が多かったのだが、その一方で貧しい家庭も沢山あり、高校に行くことも出来ず「中卒で就職」と言う子も少なくなく、歩いて5分ほどのところには「朝鮮人」と言うものもあり、この近くには近寄る人は少なかったのですが、私は何度も配達に行ったことがあり、その悲惨な姿を目の当たりに見ているのです。
当時は「朝鮮人」と言うだけで商品を売ることを拒む店も多く、「配達などとんでもない」と言う状況の中で、私の父は商品は売るものの「配達は全て私がする」と言うことになっていたのですが、一部のお店では「配達はするが近くの道路まで」と言う事で、よく道端に商品が放置されているのを見たことがあるのです。
そして、この「悲惨な朝鮮人の姿」を見たこともその後の私に大きな影響を与え、日本人の物の考え方に「嫌悪感を抱く」と言うことにもなっているのです。
別に悪い事件などで新聞に載ったわけではなく、久しぶりに見る学校の名前に懐かしさがこみ上げてきたのです。
この小学校がある地域はかなり裕福な家庭も多く、私の同級生には「大地主(昔の庄屋)」の家の子もおり、卒業してかなりたってからの話ではあるが、住んでいた大きな茅葺き屋根と、「時価数十億」とも言われる土地を、「文化施設として利用する」と言うことを条件に中野区に寄付しているのです。
他にも裕福な家庭が多かったのだが、その一方で貧しい家庭も沢山あり、高校に行くことも出来ず「中卒で就職」と言う子も少なくなく、歩いて5分ほどのところには「朝鮮人」と言うものもあり、この近くには近寄る人は少なかったのですが、私は何度も配達に行ったことがあり、その悲惨な姿を目の当たりに見ているのです。
当時は「朝鮮人」と言うだけで商品を売ることを拒む店も多く、「配達などとんでもない」と言う状況の中で、私の父は商品は売るものの「配達は全て私がする」と言うことになっていたのですが、一部のお店では「配達はするが近くの道路まで」と言う事で、よく道端に商品が放置されているのを見たことがあるのです。
そして、この「悲惨な朝鮮人の姿」を見たこともその後の私に大きな影響を与え、日本人の物の考え方に「嫌悪感を抱く」と言うことにもなっているのです。
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