「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

中学2年で富士山に登る  ①

2010-02-06 | 日記
今では5合目まで車で行くことが出来るので、夏であれば誰でも気軽に日帰りで登る事も出来るのだが、私が中学生の頃(昭和30年代前半)は「日帰りで登る」などと言う事はとても出来なかったのですが、こんな事を知っている人は少なくなってしまいました。
私は家にいることが嫌だった事もあり、当時はどこの学校でも実施されていたと思うのだが、夏休みには「臨海学校、林間学校」と言うものがあったのだが、海が好きだった私は、小学校5年、6年の時には「房総半島の岩井海岸」へ行き、中学1年では「三浦半島の観音崎」へ行ったのだが、観音崎では楽しかった部分もあるのだが、「カナズチ」の私にとって苦い思い出が出来てしまい、2年では海をやめ「箱根の仙石原」に行くことにしたのだが、この時に富士山に登る事になったのです。
この富士登山、私にとっては「行きは良い良い帰りは怖い」ではなく、行きは難行苦行の連続だったのだが、一転して「帰りは大満足」だったのです。
当時5合目まで車で行ける道はなく、ふもとから歩いて登らなければならないのだが、この「ふもと」と言うのが曲者で、私が登った時は「太平洋の海の近くで、製紙工場がある町のはずれ」と言う事で、今考えてみれば「富士市の町のはずれ」だったのでしょうが、ここでバスを降ろされることになったのだが、始めは「休憩で降ろされた」のだとばかり思っていた私たちに、引率の先生は無常にも「ここから歩いて登る」と言ったのです。
富士山は未だ遥か先に見える場所からの富士登山、始めのうちは軽口も出ていたのだが、夏の炎天下に普通の道を歩かされるのだからじきに口数も減り、タダひたすら歩くだけで、やっとの思いで「一合目(馬返し)」についた頃には皆バテバテになっていたのですが、この後は「五合目」まで有名な「樹海」の中を歩く事になるのです。
普通の道を歩くのに比べれば、樹海の中は日差しも少なくて多少は楽になったのだが、今度は「景色が全く見えない」と言うことになってしまうのです。
さて、当時はコンビにも自動販売機も無い時代なので、簡単に飲み物を補充する事も出来ず、アルミ製の水筒だけが頼りで、一合目についた頃には皆飲み干してしまっていたのだが、この後の水の補給には驚くような事が待っていたのです。
私たちはある程度のお金は持っていたのだが、樹海の中の休憩所で見た張り紙に皆ビックリする事になるのです。
その張り紙に書いてあったのは「水、コップに一杯5円」と言う文字で、簡単に水の飲める水道など全く無く、飲み水はお金で買うしかなかったのですが、この「一杯5円」だが、今の物価にスライドさせると「一杯100円」くらいになるのではないだろうか。
この頃はラーメンが30円で、バナナは驚く無かれ「一本15円」と言う時代だったのですが、お金に余裕がある生徒は「サイダー、ジュース」を買う事もあったのだが、今のような缶入りやペットボトルではなく、ガラスの瓶で「1本15円」もしたのです。
さて、やっとの思いで樹海を抜け五合目についたのだが、この頃から天気が悪くなりはじめ、五合目についたころは見えていた頂上も次第に見えなくなり、やがてあたりは暗くなって雨が降り出し、この頃はすでに夕方になっており、懐中電灯を頼りに八合目の山小屋を目指したのです。
                            つづく
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