(2005/ラッセ・ハルストレム監督/ロバート・レッドフォード、ジェニファー・ロペス、モーガン・フリーマン、ベッカ・ガードナー、ジョシュ・ルーカス、ダミアン・ルイス、カムリン・マンハイム、リンダ・ボイド、“バート・ザ・ベアー”/108分)
<ネタバレあり>
「潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ」と同じく劇場未公開だそうです。「ウォルター少年と、夏の休日」は公開されたのに、ジイ様映画も色々ですな。
今作のジイ様も二人。ワイオミングの山間(やまあい)に住むアイナーという白人(レッドフォード)と黒人のミッチ(フリーマン)。カウボーイ仲間として40年のつき合いだが、どちらにも既に女っ気はない。牧場にも牛は殆どおらず、アイナー曰く『牛を売り払った金で暮らしている』らしい。
朝、アイナーは必要な物を持って、隣のミッチの住む小屋に向かう。モルヒネの瓶に注射器に熱いコーヒー。1年前、山から下りてきた大きな熊にアイナーの飼っている子牛が襲われている所に出くわしたミッチは、子牛を助けようとして反対に熊にやられたのだ。背筋と脊椎を痛めていて、毎朝アイナーにオイル・マッサージをしてもらっている。モルヒネはお尻に注射する痛み止めだ。右の顔面にも熊に殴られた跡がある。
そんなアイナーの所に思いがけない訪問客がある。およそ11年前に事故死した息子グリフィンの嫁、ジーン(ロペス)だ。彼女と、もう一人女の子が連れられて来た。
『君の娘か?』
『グリフィンの葬儀の時、お腹にいたの。あなたの孫よ』
息子の死以来ジーンとは殆ど音信不通だった。まさか孫娘がいたとは。
アイナーにとってジーンは許し難い存在だった。息子は自動車事故で死んだのだが、その時運転していたのがジーン。彼女の不注意が原因だった。つまり、アイナーにとってジーンは息子を殺したも同然なのだ。そんなジーンが、荷物を抱えてやって来て、ひと月泊まらせて欲しいと言う。アイナーは、お金が貯まったら出て行くからというジーンに部屋を与えることにするのだが・・・。
原題も、【An Unfinished Life】。これは、アイナーの家の近くに埋葬されている息子の墓石に彫られている文言でした。
“未完成の人生”、“仕上がらないままの人生”という事でしょうか。折にふれ、大きな樹の側で眠る息子に会いに来ては、アイナーは語りかける。その姿に、息子の存在が彼にとって如何に大きかったかが良く分かります。
『ここに来させちゃダメじゃないか』
ジーンの来訪を彼流の言葉で報告するアイナー。
息子に因んだグリフという名前で、顔もそっくりの孫娘とのふれ合いが、やがて頑固爺さんと嫁との仲も繋いでいく。そんな成り行きはおおよそ見当が付くものの、細やかなやりとりの積み重ねが、美しいワイオミングの大自然と田舎町の人々とのふれ合いの中でハルストレム流に描かれ、しみじみとする。
人口1400人の田舎町の、その又はずれで障害を抱える長年の友人と生きる老人。しかも愛する息子に先立たれた哀しみを癒せない頑固オヤジをレッドフォードが如何に演じるか、そんなところを楽しみながら観てました。多分初めてではないですかね、レッドフォードが(たとえ子供が故人であっても)人の子の親という役を演じるのは。ましてや、孫のいるジイさん役なんて。孫娘とのふれ合いは、まるで「アルプスの少女ハイジ」のオンジのようでした。
ジェニ・ロペ扮する元嫁ジーンは、息子が死んだ後何人かの男とくっつくも、どれも長続きせず、最近2年間暮らした男はDV持ち。つまり、ジーンはこの男の暴力から逃れるために娘を連れて、自分を嫌っている舅(しゅうと)の家に厄介になりに来たわけです。DV男はしつこい。やがて、ワイオミングの田舎町にも現れる。この男の存在が、映画の中にバイオレンス要素という調味料を振りかけます。
バイオレンスと言えば、もう一つある。オープニング・シーンが山から下りてくる大きな熊。凶暴な雰囲気ではないが、何しろグリズリーである。食べ物が無くなったのか、町の中にも入っていって、結局動物園に捕らえられる。実は、この熊がミッチを襲った熊なのである。
牧場に熊の足跡を見つけたアイナーは撃ち殺そうと銃を持って出かけるが、すんでの所で、“狩猟監視局”に止められ、熊は町の動物園に入れられる。
熊は憎しみの象徴ですな。ミッチにとって憎むべき相手なのに、彼はその熊を“俺の熊”と呼び、あれは事故だと自分に言い聞かせている。熊に悪意があろうはずも無く、ただ獲物にした子牛を横取りされまいとしただけなのだ。
熊が捕獲されたと聞いたミッチは、アイナーに熊の様子を見に行かせたり、餌遣りを頼んだりする。遠回しですが、アイナーのジーンに対する憎しみの意味を問うているようです。例えばエイハブ船長のように憎しみを持ち続けるのは馬鹿げた事だとでも言うように。
この、熊とミッチのエピソードが入っているのはそういう理由だろうと考えました。
自分への返事に「サー」を付け、息子にそっくりな孫娘。レッドフォードの孫もあんな少女だろうかと、そんな事も考えながら観てしまいました。
ハルストレム作品は、お伽話のように全体が纏まっていくのが魅力でもあり物足りなさでもある。今回は普遍的なテーマに、お薦め度は★半分おまけです。
製作はラッド・カンパニー。あの、「シェーン(1953)」のアラン・ラッドの家族がクレジットに大勢名を連ねておりました。
※ 追加記事(雑感 & 備忘録)があります。
※ エンドクレジットに流れる素敵な曲、「♪Don't / Shania Twain(シャナイア・トゥエイン)」についての記事。
※ 「Audio-Visual Trivia」さんに詳しい記事があります。
<ネタバレあり>
「潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ」と同じく劇場未公開だそうです。「ウォルター少年と、夏の休日」は公開されたのに、ジイ様映画も色々ですな。
今作のジイ様も二人。ワイオミングの山間(やまあい)に住むアイナーという白人(レッドフォード)と黒人のミッチ(フリーマン)。カウボーイ仲間として40年のつき合いだが、どちらにも既に女っ気はない。牧場にも牛は殆どおらず、アイナー曰く『牛を売り払った金で暮らしている』らしい。
朝、アイナーは必要な物を持って、隣のミッチの住む小屋に向かう。モルヒネの瓶に注射器に熱いコーヒー。1年前、山から下りてきた大きな熊にアイナーの飼っている子牛が襲われている所に出くわしたミッチは、子牛を助けようとして反対に熊にやられたのだ。背筋と脊椎を痛めていて、毎朝アイナーにオイル・マッサージをしてもらっている。モルヒネはお尻に注射する痛み止めだ。右の顔面にも熊に殴られた跡がある。
そんなアイナーの所に思いがけない訪問客がある。およそ11年前に事故死した息子グリフィンの嫁、ジーン(ロペス)だ。彼女と、もう一人女の子が連れられて来た。
『君の娘か?』
『グリフィンの葬儀の時、お腹にいたの。あなたの孫よ』
息子の死以来ジーンとは殆ど音信不通だった。まさか孫娘がいたとは。
アイナーにとってジーンは許し難い存在だった。息子は自動車事故で死んだのだが、その時運転していたのがジーン。彼女の不注意が原因だった。つまり、アイナーにとってジーンは息子を殺したも同然なのだ。そんなジーンが、荷物を抱えてやって来て、ひと月泊まらせて欲しいと言う。アイナーは、お金が貯まったら出て行くからというジーンに部屋を与えることにするのだが・・・。
原題も、【An Unfinished Life】。これは、アイナーの家の近くに埋葬されている息子の墓石に彫られている文言でした。
“未完成の人生”、“仕上がらないままの人生”という事でしょうか。折にふれ、大きな樹の側で眠る息子に会いに来ては、アイナーは語りかける。その姿に、息子の存在が彼にとって如何に大きかったかが良く分かります。
『ここに来させちゃダメじゃないか』
ジーンの来訪を彼流の言葉で報告するアイナー。
息子に因んだグリフという名前で、顔もそっくりの孫娘とのふれ合いが、やがて頑固爺さんと嫁との仲も繋いでいく。そんな成り行きはおおよそ見当が付くものの、細やかなやりとりの積み重ねが、美しいワイオミングの大自然と田舎町の人々とのふれ合いの中でハルストレム流に描かれ、しみじみとする。
人口1400人の田舎町の、その又はずれで障害を抱える長年の友人と生きる老人。しかも愛する息子に先立たれた哀しみを癒せない頑固オヤジをレッドフォードが如何に演じるか、そんなところを楽しみながら観てました。多分初めてではないですかね、レッドフォードが(たとえ子供が故人であっても)人の子の親という役を演じるのは。ましてや、孫のいるジイさん役なんて。孫娘とのふれ合いは、まるで「アルプスの少女ハイジ」のオンジのようでした。
ジェニ・ロペ扮する元嫁ジーンは、息子が死んだ後何人かの男とくっつくも、どれも長続きせず、最近2年間暮らした男はDV持ち。つまり、ジーンはこの男の暴力から逃れるために娘を連れて、自分を嫌っている舅(しゅうと)の家に厄介になりに来たわけです。DV男はしつこい。やがて、ワイオミングの田舎町にも現れる。この男の存在が、映画の中にバイオレンス要素という調味料を振りかけます。
バイオレンスと言えば、もう一つある。オープニング・シーンが山から下りてくる大きな熊。凶暴な雰囲気ではないが、何しろグリズリーである。食べ物が無くなったのか、町の中にも入っていって、結局動物園に捕らえられる。実は、この熊がミッチを襲った熊なのである。
牧場に熊の足跡を見つけたアイナーは撃ち殺そうと銃を持って出かけるが、すんでの所で、“狩猟監視局”に止められ、熊は町の動物園に入れられる。
熊は憎しみの象徴ですな。ミッチにとって憎むべき相手なのに、彼はその熊を“俺の熊”と呼び、あれは事故だと自分に言い聞かせている。熊に悪意があろうはずも無く、ただ獲物にした子牛を横取りされまいとしただけなのだ。
熊が捕獲されたと聞いたミッチは、アイナーに熊の様子を見に行かせたり、餌遣りを頼んだりする。遠回しですが、アイナーのジーンに対する憎しみの意味を問うているようです。例えばエイハブ船長のように憎しみを持ち続けるのは馬鹿げた事だとでも言うように。
この、熊とミッチのエピソードが入っているのはそういう理由だろうと考えました。
自分への返事に「サー」を付け、息子にそっくりな孫娘。レッドフォードの孫もあんな少女だろうかと、そんな事も考えながら観てしまいました。
ハルストレム作品は、お伽話のように全体が纏まっていくのが魅力でもあり物足りなさでもある。今回は普遍的なテーマに、お薦め度は★半分おまけです。
製作はラッド・カンパニー。あの、「シェーン(1953)」のアラン・ラッドの家族がクレジットに大勢名を連ねておりました。
※ 追加記事(雑感 & 備忘録)があります。
※ エンドクレジットに流れる素敵な曲、「♪Don't / Shania Twain(シャナイア・トゥエイン)」についての記事。
※ 「Audio-Visual Trivia」さんに詳しい記事があります。
・お薦め度【★★★★★=大いに見るべし!】
すんなりご到着のようで~
おニューなPCになったせいかしらん?あはは。
レンタルにありましたでしょ。
観られてよかったわね~。^^
じっくり、淡々と、騒がずに語る手法・・・
ほんと、いいですよね~。
半年たった頃にまた観たくなるよ、きっと。(^^)
「表札TB」が効いたんじゃないですかね。
多分ですが。^^
vivajijiさんの記事で、どうしても見たくなってTUTAYAに行きましたよ。
ゆくゆくは、自分もジイ様になるわけですから、感慨深い映画でありました。