(1957/フェデリコ・フェリーニ監督・共同脚本/ジュリエッタ・マシーナ、フランソワ・ペリエ、アメデオ・ナザーリ、アルド・シルヴァーニ、ドリアン・グレイ、フランカ・マルツィ/111分)
ジュリエッタ・マシーナはイタリアの綾戸智恵か!
あっ、いや、マシーナの方が先輩だから、綾戸知恵は日本のジュリエッタか! な~んてね。ちっちゃいけど元気なところと、大きなダミ声が似ているだけなんだけどネ・・・。
そんな事よりも、ジュリエッタ・マシーナは、女版チャップリンである! これこそが“カビリア”を観ていて最初に感じた事だ。イタリア発、女チャップリン!
特に前半、ヒモ男に財布入りのバッグを盗まれた上に河に突き落とされたカビリアが、その事を笑った街娼仲間とケンカをして、仲裁をしてくれた別の仲間に車で隣町に連れ出され、そこで出逢った有名な映画俳優に彼の豪邸に誘われる一幕は、まさしく女版チャーリーとも云うべき可笑しさでありました。
ニーノ・ロータの音楽も、哀愁と滑稽さが入り混じったもので、「街の灯」や「モダン・タイムス」を彷彿とさせる。1957年の米国アカデミー賞で外国語映画賞、カンヌ国際映画祭で女優賞(マシーナ)を受賞した名作であります。
(今回のストーリー紹介は、中盤以降まで“ネタバレあり”です)
マシーナ扮するカビリアは、ローマ郊外の街道沿いで春をひさぐ夜の女。形(なり)は小さいが天真爛漫で愛敬があり、ダンスが得意だ。両親とは小さい頃に死に別れたと言い、電気・ガス・水道も通っている小さなレンガ造りの家に独り住んでいる。近くには街娼仲間のワンダ(マルツィ)の家もある。
映画の冒頭で、恋人だと思っていたジョルジョに河に突き落とされ、危うく死にかける。男は金だけ取って逃げたのよと言うワンダに対して、河には自分が誤って落ちただけで、彼はビックリして何処かへ行ったのだと言うが、さすがに、落ち着いて考えてみるとワンダの言うとおりなので、二度と男には貢がないと心に誓う。
数日後、ひょんな事で有名な映画スター、アルベルト・ラツァリ(ナザーリ)と知り合いになり、彼に誘われるままナイトクラブへ行き、その後彼の豪邸で食事をすることになる。ラツァリはやきもち焼きの恋人ジェシー(グレイ)とケンカをして、気晴らしにカビリアを誘っただけなのだが、カビリアにしてみれば夢のような夜だった。
大きな車に乗り、執事の待つ大きな屋敷に入る。迷路のような廊下では大小様々な犬達が遊び、ガラス張りのギャラリーにはインコなどの鳥が飼われていた。ベッドルームに入ると、執事が食事をワゴンで運んでくる。シャンパンに、チキンのもも肉。映画でしか見たことがない大きなロブスターにキャビア。
カビリアは、友達に自慢できるようにとラツァリにサイン入りの写真を頼み、あっけらかんとしたカビリアが気に入った彼は快く応じる。ところがそこに、数時間前にケンカ別れしたばかりのジェシーがやって来る。すぐに追い返すからと、カビリアをバスルームに隠す男。鍵穴から二人の様子を窺うカビリア。ケンカしていた恋人たちが仲直りするのは時間の問題だった。こうして、夢のようなカビリアの夜は、儚く消えていく。
翌朝、バスルームの窓から見たプール付の庭の広さ。ラツァリはちゃんとお札を握らせてくれたが、独り歩いて帰るカビリアの後ろ姿は侘びしかった。
ある日、ワンダや他の街娼仲間に誘われて「神の愛」の巡礼集会に出かけることになる。宗教には無縁のカビリアだったが、今の生活を変えたいという気持ちはある。群衆に揉まれ、彼らと同じように懺悔をし、何かに憑かれたようにマリア様に祈るカビリア。しかし、巡礼が終わってくつろいだ仲間は元通りの姿だったし、自分も数時間前と何も変わらなかった。神様とは何なんだ?
先日、仕事帰りに偶然出逢った男の方が、余程神様のようだった。夜明け前、その男はサンタクロースのように大きな袋を担ぎ、郊外の原っぱの洞窟で暮らしているホームレス達に食べ物や衣服を配っている男だった。カビリアはそこで、かつての知り合いの女性を見かける。数年前には市内にマンションを持っていた女だったが、今は着の身着のまま、“サンタ”だけが頼りの生活のようだった。ローマの方に帰るという男の車に乗せてもらう。男は、自分のしていることは大したことではないと言い、カビリアについても家の事や家族について聞いてくれた。男には尋ねたいこともあったが、言葉に詰まるカビリアであった。
暇を持て余した或る夜のこと、カビリアは奇術師のショーをやっている小屋に入る。手品が終わり、次は催眠術の実験というところで、数人の男性に混じってカビリアも実験台にと誘われる。初めは断った彼女だが、成り行きで舞台に上がることになる。簡単に催眠術にかかったカビリアは、舞台上でオスカーという架空の青年と恋人同士になり、彼とデートをする。奇術師に聞かれるまま小さい頃の思い出を語り、野原の美しい草花を摘む。予想以上に深く話にのめり込みそうな勢いに、奇術師はカビリアを覚醒させる。
笑い者にされたと思ったカビリアは、他の観客のはけるのを待って最後に小屋を出て行こうとする。その時、出口の所でカビリアは一人の青年(ペリエ)に声をかけられる。純朴なカビリアの姿に感銘を受けたというその男は、一方的に話しかけ、もし良ければ次の日曜日の夜7時に駅で会いたいと言う。カビリアは行くかどうかは分からないと応える。
何故そんなに熱心なの?と聞くカビリアに、彼はこう言う。『私の名前はオスカーなのです』・・・。
▼(終盤、ネタバレ注意)
オスカーはいわゆる結婚詐欺師な訳ですが、当初は観客にも分からないように描いています。カビリアとのデート中も自分の生い立ちなどは話すものの、お金の話や彼女の仕事については一切触れません。“結婚”についても自分からは言い出しません。この辺が上手い所で、『これ以上デートしたってしょうがないわ』とカビリアがしびれを切らした頃、伝家の宝刀のように切り出すのです。
『初めからそのつもりだったのですが、なかなか言い出せなくて・・・結婚して下さい』
『知り合って2週間しかならないのに、結婚だなんて馬鹿じゃないの!?』と言いながら、内心は小躍りしそうな位のカビリアは、すっかり信用してしまう。
同じ頃にカビリアの家の近くに托鉢(たくはつ)にやって来た僧の名前が、オスカーと同じジョバンニだったりとか、不思議にカビリアが詐欺師野郎に騙されやすいような事柄が続いたのも不運で、終盤の残酷な展開には思わずもらい泣きしてしまいました。
▲(解除)
フェリーニが難解になる前の作品で、宗教儀式については些か不案内なところもあるが、それ以外は極めて分かり易く、ジェルソミーナに通じる、愛すべき女性カビリアを演じるマシーナが素晴らしい! 何度も言いますが、映画スターとの夜のシークエンスでは何度も大笑いしてしまいました。この作品ではチャップリン風の滑稽な踊りでありましたが、「ジンジャーとフレッド(1986)」(=未見)では、もっと色んな踊りが披露されているのでしょうか。とても見たくなりました。
尚、カビリアが車中で“サンタ”に話す本名はマリア・チェカレッリ。“カビリア”は1913年に作られたジョヴァンニ・パストローネ監督の「カビリア」のヒロインの名前から、ワンダ達が付けたあだ名という設定のようでした。
製作は「道(1954)」と同じ、ディノ・デ・ラウレンティス。因みに、ラウレンティスはシルバーナ・マンガーノのご亭主であります。
フェリーニと共に脚本を書いたのは、エンニオ・フライアーノとトゥリオ・ピネッリ。そして、“あの”ピエル・パオロ・パゾリーニも脚本助手として名を連ねておりました。
<フェリーニはリアリズムから遠ざかるにつれて、視覚的、知的センスを補ってくれる新たな協力者を増やしてきたが、パゾリーニはその典型だった。・・・・・パゾリーニと年下のいかつい“友人”のセルジョ・チッティは、傲岸ですれっからしのローマ、カビリアの住むローマを教えてくれた。フェリーニは「カビリアの夜」の台詞に真実味をもたせるために、二人をスタッフに加えたのだった。>(ジョン・バクスターの著書、「フェリーニ」より)
ジュリエッタ・マシーナはイタリアの綾戸智恵か!
あっ、いや、マシーナの方が先輩だから、綾戸知恵は日本のジュリエッタか! な~んてね。ちっちゃいけど元気なところと、大きなダミ声が似ているだけなんだけどネ・・・。
そんな事よりも、ジュリエッタ・マシーナは、女版チャップリンである! これこそが“カビリア”を観ていて最初に感じた事だ。イタリア発、女チャップリン!
特に前半、ヒモ男に財布入りのバッグを盗まれた上に河に突き落とされたカビリアが、その事を笑った街娼仲間とケンカをして、仲裁をしてくれた別の仲間に車で隣町に連れ出され、そこで出逢った有名な映画俳優に彼の豪邸に誘われる一幕は、まさしく女版チャーリーとも云うべき可笑しさでありました。
ニーノ・ロータの音楽も、哀愁と滑稽さが入り混じったもので、「街の灯」や「モダン・タイムス」を彷彿とさせる。1957年の米国アカデミー賞で外国語映画賞、カンヌ国際映画祭で女優賞(マシーナ)を受賞した名作であります。
(今回のストーリー紹介は、中盤以降まで“ネタバレあり”です)
マシーナ扮するカビリアは、ローマ郊外の街道沿いで春をひさぐ夜の女。形(なり)は小さいが天真爛漫で愛敬があり、ダンスが得意だ。両親とは小さい頃に死に別れたと言い、電気・ガス・水道も通っている小さなレンガ造りの家に独り住んでいる。近くには街娼仲間のワンダ(マルツィ)の家もある。
映画の冒頭で、恋人だと思っていたジョルジョに河に突き落とされ、危うく死にかける。男は金だけ取って逃げたのよと言うワンダに対して、河には自分が誤って落ちただけで、彼はビックリして何処かへ行ったのだと言うが、さすがに、落ち着いて考えてみるとワンダの言うとおりなので、二度と男には貢がないと心に誓う。
数日後、ひょんな事で有名な映画スター、アルベルト・ラツァリ(ナザーリ)と知り合いになり、彼に誘われるままナイトクラブへ行き、その後彼の豪邸で食事をすることになる。ラツァリはやきもち焼きの恋人ジェシー(グレイ)とケンカをして、気晴らしにカビリアを誘っただけなのだが、カビリアにしてみれば夢のような夜だった。
大きな車に乗り、執事の待つ大きな屋敷に入る。迷路のような廊下では大小様々な犬達が遊び、ガラス張りのギャラリーにはインコなどの鳥が飼われていた。ベッドルームに入ると、執事が食事をワゴンで運んでくる。シャンパンに、チキンのもも肉。映画でしか見たことがない大きなロブスターにキャビア。
カビリアは、友達に自慢できるようにとラツァリにサイン入りの写真を頼み、あっけらかんとしたカビリアが気に入った彼は快く応じる。ところがそこに、数時間前にケンカ別れしたばかりのジェシーがやって来る。すぐに追い返すからと、カビリアをバスルームに隠す男。鍵穴から二人の様子を窺うカビリア。ケンカしていた恋人たちが仲直りするのは時間の問題だった。こうして、夢のようなカビリアの夜は、儚く消えていく。
翌朝、バスルームの窓から見たプール付の庭の広さ。ラツァリはちゃんとお札を握らせてくれたが、独り歩いて帰るカビリアの後ろ姿は侘びしかった。
ある日、ワンダや他の街娼仲間に誘われて「神の愛」の巡礼集会に出かけることになる。宗教には無縁のカビリアだったが、今の生活を変えたいという気持ちはある。群衆に揉まれ、彼らと同じように懺悔をし、何かに憑かれたようにマリア様に祈るカビリア。しかし、巡礼が終わってくつろいだ仲間は元通りの姿だったし、自分も数時間前と何も変わらなかった。神様とは何なんだ?
先日、仕事帰りに偶然出逢った男の方が、余程神様のようだった。夜明け前、その男はサンタクロースのように大きな袋を担ぎ、郊外の原っぱの洞窟で暮らしているホームレス達に食べ物や衣服を配っている男だった。カビリアはそこで、かつての知り合いの女性を見かける。数年前には市内にマンションを持っていた女だったが、今は着の身着のまま、“サンタ”だけが頼りの生活のようだった。ローマの方に帰るという男の車に乗せてもらう。男は、自分のしていることは大したことではないと言い、カビリアについても家の事や家族について聞いてくれた。男には尋ねたいこともあったが、言葉に詰まるカビリアであった。
暇を持て余した或る夜のこと、カビリアは奇術師のショーをやっている小屋に入る。手品が終わり、次は催眠術の実験というところで、数人の男性に混じってカビリアも実験台にと誘われる。初めは断った彼女だが、成り行きで舞台に上がることになる。簡単に催眠術にかかったカビリアは、舞台上でオスカーという架空の青年と恋人同士になり、彼とデートをする。奇術師に聞かれるまま小さい頃の思い出を語り、野原の美しい草花を摘む。予想以上に深く話にのめり込みそうな勢いに、奇術師はカビリアを覚醒させる。
笑い者にされたと思ったカビリアは、他の観客のはけるのを待って最後に小屋を出て行こうとする。その時、出口の所でカビリアは一人の青年(ペリエ)に声をかけられる。純朴なカビリアの姿に感銘を受けたというその男は、一方的に話しかけ、もし良ければ次の日曜日の夜7時に駅で会いたいと言う。カビリアは行くかどうかは分からないと応える。
何故そんなに熱心なの?と聞くカビリアに、彼はこう言う。『私の名前はオスカーなのです』・・・。
▼(終盤、ネタバレ注意)
オスカーはいわゆる結婚詐欺師な訳ですが、当初は観客にも分からないように描いています。カビリアとのデート中も自分の生い立ちなどは話すものの、お金の話や彼女の仕事については一切触れません。“結婚”についても自分からは言い出しません。この辺が上手い所で、『これ以上デートしたってしょうがないわ』とカビリアがしびれを切らした頃、伝家の宝刀のように切り出すのです。
『初めからそのつもりだったのですが、なかなか言い出せなくて・・・結婚して下さい』
『知り合って2週間しかならないのに、結婚だなんて馬鹿じゃないの!?』と言いながら、内心は小躍りしそうな位のカビリアは、すっかり信用してしまう。
同じ頃にカビリアの家の近くに托鉢(たくはつ)にやって来た僧の名前が、オスカーと同じジョバンニだったりとか、不思議にカビリアが詐欺師野郎に騙されやすいような事柄が続いたのも不運で、終盤の残酷な展開には思わずもらい泣きしてしまいました。
▲(解除)
フェリーニが難解になる前の作品で、宗教儀式については些か不案内なところもあるが、それ以外は極めて分かり易く、ジェルソミーナに通じる、愛すべき女性カビリアを演じるマシーナが素晴らしい! 何度も言いますが、映画スターとの夜のシークエンスでは何度も大笑いしてしまいました。この作品ではチャップリン風の滑稽な踊りでありましたが、「ジンジャーとフレッド(1986)」(=未見)では、もっと色んな踊りが披露されているのでしょうか。とても見たくなりました。
尚、カビリアが車中で“サンタ”に話す本名はマリア・チェカレッリ。“カビリア”は1913年に作られたジョヴァンニ・パストローネ監督の「カビリア」のヒロインの名前から、ワンダ達が付けたあだ名という設定のようでした。
製作は「道(1954)」と同じ、ディノ・デ・ラウレンティス。因みに、ラウレンティスはシルバーナ・マンガーノのご亭主であります。
フェリーニと共に脚本を書いたのは、エンニオ・フライアーノとトゥリオ・ピネッリ。そして、“あの”ピエル・パオロ・パゾリーニも脚本助手として名を連ねておりました。
<フェリーニはリアリズムから遠ざかるにつれて、視覚的、知的センスを補ってくれる新たな協力者を増やしてきたが、パゾリーニはその典型だった。・・・・・パゾリーニと年下のいかつい“友人”のセルジョ・チッティは、傲岸ですれっからしのローマ、カビリアの住むローマを教えてくれた。フェリーニは「カビリアの夜」の台詞に真実味をもたせるために、二人をスタッフに加えたのだった。>(ジョン・バクスターの著書、「フェリーニ」より)
・お薦め度【★★★★★=終盤が哀しすぎるけど、大いに見るべし!】
十瑠さんの「ある愛の詩」のレビューも拝読しました。私のお粗末なレビューと違って、相も変わらぬ十瑠さんスタイルの綿密な文章に感じ入りました。随分以前に書いて居られるのですね。
最近書かれた「カビリアの夜」は、私も感銘を受けた映画でしたので、TBさせて頂きました。私の評価は90点でしたが、十瑠さんは100点満点ですか。凄い評価ですね。でも確かに、映画らしい映画でした。ほんとうに神様とは何なのかと思えます。
私のは5段階ですから、90点でも五つ★になりますから同じですね。
映像の魔術師といわれる頃のフェリーニも嫌いじゃないですが、カビリアや「道」の頃の方が好きですね。
これはCSで放映されていたのを見たんですけど、なんか心惹かれる好きな作品です。ジュリエッタ・マシーナの演技と味でしょうかね。段々とカビリアが哀れに思えてきて…。彼女言ってましたね。何かの作品で「彼からは主役はさせてもらえなかったけれど、その代わり彼の奥さんにしてもらったわ」って。「道」はビデオテープで持ってますね。フェリーニってリアルタイムではそれほど多くは見ていないくって、初期の方はCSで放映された時にせっせと観ています。やっぱり面白いですね。
どちらも何回か観てますが、やっとこさDVD保存できそうです。
>ジュリエッタ・マシーナの演技と味でしょうかね。
「魂のジュリエッタ」を初めてTVで見た時も、日本人のような可愛らしさに笑っちゃいましたけど、カビリアはホントに可笑しかった。可笑しくて、面白くて、最後は可哀想で。
実生活でも、最後は旦那さんの後を追うように亡くなってしまって。
未見のマシーナの作品では、「ジンジャーとフレッド」が観たい№1です
確かにイメージだなあ。
僕は本作を日本でリメイクするならヒロイン役には誰が良いかなあと考え、左幸子をキャスティング。結婚詐欺師には三國連太郎。それじゃ「飢餓海峡」と同じじゃんと言われそうですが、なかなか良いのでは?(笑)
>ジュリエッタ・マシーナは、女版チャップリンである!
僕もそう思い、笑顔について軽く比較しておきました。
>ニーノ・ロータの音楽も
同意。
「ライムライト」もありますか。
二人とも若い頃のイメージがぼんやりしてるので、良いかどうかの判断はちと難しいですなぁ。
詐欺師はともかく、本家カビリアに近い人と考えると結構大変な感じがしますネ。女版チャップリンですから。
若い頃の大竹しのぶなら少しはいけるかも・・・。