(1956/イェジー・カワレロウィッチ監督・共同脚本/ズィグムント・ケンストウィッチ、タデウシュ・ユラシュ、イグナーチ・マホフスキー、アドルフ・ロニッキー/98分)
田舎道を走っている車のカップルが、平行して走る列車の最後尾から飛び降りようとしている男を見つける。二人して危ないからヤメロと叫ぶが、列車の男は飛び降り、線路の土手を転がり落ちる。男に駆け寄る二人。飛び降りた男は息はあるものの顔は無惨にも潰れ、人相が分からない程だった。
列車の男はこの辺りの家に用事があったのかも知れないと、カップルの方の男は女を近くの民家へ行かせるが、出てきた老婆は心当たりが無いと言う。
ここまでがプロローグ。
列車から飛び降りた男の潰れた顔のショットは、ヒッチコックの「サイコ」のラストのようにショッキングだが、これは以前紹介した「夜行列車」のカワレロウィッチ監督の、ミステリアスな社会派スリラー映画。
allcinema-ONLINEによると、この映画が作られた56年は、<スターリン批判の始まった年>とのことで、“影”というのはスターリンの暗い政治的な影という意味もあるのかもしれません。
プロローグの後、場面は検死の終わった病院の一室になる。列車の男は死亡し、コートは着ていたものの、背広の上着を着ていなかったので身元も分からない。これは迷宮入りかとの話もでるが、報告を受けている警官は、『いずれ男の身元も分かるだろう。“影”を追っていけば真相は掴めるもんさ。』と言う。
警官の話を聞いていた医者のクニシンは、『いや、世の中には解決できない事件もある。』と戦時中に自身が遭遇したある事件について語り出す。ここからが、過去のエピソードの一番目のスタートだ。
ドイツ侵攻後の地下抵抗運動に加担していたクニシンが遭遇した不可解な事件で、資金集めの為にドイツ人と通じた店を襲うが、別の一団と鉢合わせし、撃ち合いになったという話。最初は警察かと思ったのにそうではなかった。別の地下組織の可能性が高いが、同じ時間に同じ店を襲うというのは偶然にしては出来過ぎだった。それにより4人の仲間が死に、一人が重傷を負った。何者かの陰謀に間違いないが、あまりに巧みに騙されたので今もって未解決のままだった。
そのころ、例の列車が到着した改札のない駅で、一人の不審な男が警官に取り押さえられる。切符を持っていないその男は、自分のものではない上着を抱えており、『前の駅で下車した男が忘れたもので、悪戯心から持って降りてしまった。』と言い訳をする。
その男の逮捕の報告を受けた事件の担当警官は、たまたま通りかかった上司の車に同乗し、不審者の所へ行くことにする。
警官の上司カルボフスキ(ロニッキー)は、謎めいた事件の話を聞くと、そう言えば自分も不思議な事を思い出したと、やはり戦時中のある体験談を話し出す。これが過去のエピソードの2番目だ。
戦争のゴタゴタに乗じて私利私欲の為に暗躍するギャング団を撲滅しようと、スパイとなってギャング団に潜入した時の恐怖体験で、二重スパイの裏切りにより死は免れたものの、その時彼は重傷を負ってしまう。
警官が駅に到着し、無賃乗車の男を問いつめる。やがて、男は列車から飛び降りた男について語り始めるが、それは、それまで語られた戦争中の事件によく似た不思議な話だった。社会を混乱に陥れようとする、“影”のような存在により引き起こされた、不気味な話だった・・・。
過去話には、ある一点以外には繋がりがなく、ストレートな構成が好きな私としては若干お薦め度は低くなるし、2番目のエピソードは登場人物が多く、展開がラフで事情が分かりにくい感じがした。しかしながら、カワレロウィッチ監督の語り口は50年代の東欧からイメージする堅苦しさは無く、西側映画の表現となんら遜色無い。というか、優れたエンターテインメントになっている。
最後に、冒頭で列車から落ちた男の話に戻り、「現金に体を張れ」のように、別の角度からの描写で語られるのが唸ってしまうところで、幕切れも余韻を残してよろしいです。ハタと思い調べてみましたら、あのキューブリック作品も56年の映画でありました。偶然とは面白いもんです。
トリビアですが、印象に残った事が二つ。
ギャング団のアジトに入ったときに流れてきたギターのBGMが、この数年後に登場したマカロニウェスタンによく似ていたこと。コチラの方が製作が早いので、当然マカロニではなく、54年の「大砂塵(原題:Johnny Guitar)」辺りがルーツかも知れませんが、戦争中の話なのに西部劇風の音楽が妙な雰囲気でした。
それと、ギャング団の首領がロシアのプーチン大統領に似ていたこと。ン? あのギャング達はロシア系だった?
カワレロウィッチと一緒に脚本を書いたのは、アレクサンドル・スチボル=リスキー。白黒カメラは、イエルズイ・リップマンでした。
田舎道を走っている車のカップルが、平行して走る列車の最後尾から飛び降りようとしている男を見つける。二人して危ないからヤメロと叫ぶが、列車の男は飛び降り、線路の土手を転がり落ちる。男に駆け寄る二人。飛び降りた男は息はあるものの顔は無惨にも潰れ、人相が分からない程だった。
列車の男はこの辺りの家に用事があったのかも知れないと、カップルの方の男は女を近くの民家へ行かせるが、出てきた老婆は心当たりが無いと言う。
ここまでがプロローグ。
列車から飛び降りた男の潰れた顔のショットは、ヒッチコックの「サイコ」のラストのようにショッキングだが、これは以前紹介した「夜行列車」のカワレロウィッチ監督の、ミステリアスな社会派スリラー映画。
allcinema-ONLINEによると、この映画が作られた56年は、<スターリン批判の始まった年>とのことで、“影”というのはスターリンの暗い政治的な影という意味もあるのかもしれません。
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プロローグの後、場面は検死の終わった病院の一室になる。列車の男は死亡し、コートは着ていたものの、背広の上着を着ていなかったので身元も分からない。これは迷宮入りかとの話もでるが、報告を受けている警官は、『いずれ男の身元も分かるだろう。“影”を追っていけば真相は掴めるもんさ。』と言う。
警官の話を聞いていた医者のクニシンは、『いや、世の中には解決できない事件もある。』と戦時中に自身が遭遇したある事件について語り出す。ここからが、過去のエピソードの一番目のスタートだ。
ドイツ侵攻後の地下抵抗運動に加担していたクニシンが遭遇した不可解な事件で、資金集めの為にドイツ人と通じた店を襲うが、別の一団と鉢合わせし、撃ち合いになったという話。最初は警察かと思ったのにそうではなかった。別の地下組織の可能性が高いが、同じ時間に同じ店を襲うというのは偶然にしては出来過ぎだった。それにより4人の仲間が死に、一人が重傷を負った。何者かの陰謀に間違いないが、あまりに巧みに騙されたので今もって未解決のままだった。
そのころ、例の列車が到着した改札のない駅で、一人の不審な男が警官に取り押さえられる。切符を持っていないその男は、自分のものではない上着を抱えており、『前の駅で下車した男が忘れたもので、悪戯心から持って降りてしまった。』と言い訳をする。
その男の逮捕の報告を受けた事件の担当警官は、たまたま通りかかった上司の車に同乗し、不審者の所へ行くことにする。
警官の上司カルボフスキ(ロニッキー)は、謎めいた事件の話を聞くと、そう言えば自分も不思議な事を思い出したと、やはり戦時中のある体験談を話し出す。これが過去のエピソードの2番目だ。
戦争のゴタゴタに乗じて私利私欲の為に暗躍するギャング団を撲滅しようと、スパイとなってギャング団に潜入した時の恐怖体験で、二重スパイの裏切りにより死は免れたものの、その時彼は重傷を負ってしまう。
警官が駅に到着し、無賃乗車の男を問いつめる。やがて、男は列車から飛び降りた男について語り始めるが、それは、それまで語られた戦争中の事件によく似た不思議な話だった。社会を混乱に陥れようとする、“影”のような存在により引き起こされた、不気味な話だった・・・。
*
過去話には、ある一点以外には繋がりがなく、ストレートな構成が好きな私としては若干お薦め度は低くなるし、2番目のエピソードは登場人物が多く、展開がラフで事情が分かりにくい感じがした。しかしながら、カワレロウィッチ監督の語り口は50年代の東欧からイメージする堅苦しさは無く、西側映画の表現となんら遜色無い。というか、優れたエンターテインメントになっている。
最後に、冒頭で列車から落ちた男の話に戻り、「現金に体を張れ」のように、別の角度からの描写で語られるのが唸ってしまうところで、幕切れも余韻を残してよろしいです。ハタと思い調べてみましたら、あのキューブリック作品も56年の映画でありました。偶然とは面白いもんです。
トリビアですが、印象に残った事が二つ。
ギャング団のアジトに入ったときに流れてきたギターのBGMが、この数年後に登場したマカロニウェスタンによく似ていたこと。コチラの方が製作が早いので、当然マカロニではなく、54年の「大砂塵(原題:Johnny Guitar)」辺りがルーツかも知れませんが、戦争中の話なのに西部劇風の音楽が妙な雰囲気でした。
それと、ギャング団の首領がロシアのプーチン大統領に似ていたこと。ン? あのギャング達はロシア系だった?
カワレロウィッチと一緒に脚本を書いたのは、アレクサンドル・スチボル=リスキー。白黒カメラは、イエルズイ・リップマンでした。
・お薦め度【★★★=一度は見ましょう、私は二度見ましたが】
やはり映画館で観ないと駄目かなあ、こういう独自の暗さがあるのは。
本作はまず池袋で観て、10年後くらいにBSで、今度が三回目で、割合お気に入り。
70年代半ばに「人間の証明」においてばらばらだった3つのエピソードが一つの線で結ばれた時感激、その2年後くらいに観て、そういうのはそれ以前殆どなかったですし、まして50年代半ばにこの発想は「断然凄いや」と思ったわけです。
「人間の証明」の映画版は全く平板なつまらん出来でしたが。
90年代以降の複雑骨折みたいのを観た目には、単純ですけどね。
ぷぷっ。ま、そう言うことですかね。^^
それでも、オカピーさんが述べられているように、練られたカメラアングルによる緊迫感溢れる描写は、さすがカワレロウィッチ先生でありました。
プロローグのお遊び的な処理も面白かったし、各エピソードの繋ぎも鮮やか。西側に来ても面白い映画を作れた作家だったと思いますね。