(1993/ラッセ・ハルストレム監督/ジョニー・デップ、レオナルド・ディカプリオ、ジュリエット・ルイス(=ベッキー)、メアリー・スティーンバージェン(=保険屋の妻ベティ)、ダーレン・ケイツ(=母親)、ローラ・ハリントン(=姉)、メアリー・ケイト・シェルハート(=妹)、ジョン・C・ライリー(=友人)/117分)
ハルストレム監督のハリウッド2作目とのこと。1作目って何だろう? 日本未公開という「ワンス・アラウンド (1991)」がソレだろうか。
「ギルバート・グレイプ」は1993年の作品で、ジョニー・デップが主演。デップの知的障害者の弟役で若いディカプリオが出ていて、最初に観た時はディカプリオの名前も知らず、まるで作り物でないような演技が凄く印象に残っていた。もう随分前で、その時はレンタルビデオ(VHS)での鑑賞。今回はNHK-BS放送の録画でした。
allcinema-onlineでは<どこか「ラスト・ショー」を思わせる、アメリカ中西部の田舎町>が舞台だと紹介されている。
知的障害者の弟がいるところ、主人公が田舎町を離れられないところ、人妻と懇ろになっているところ、確かにそういう設定は似ていますが、「ラスト・ショー」が全く夢も希望もない悲観的な、厭世観さえ漂うような作品であることを考えると、かなり印象は違います。「ギルバート・グレイプ」をお好きな方が、上に引用した文章に引かれて「ラスト・ショー」を観られるとガックリこられること間違い無しなのでご注意申し上げておきましょう。
デップ扮するギルバートはアイオワののどかな田舎町に住む青年。父親が建てたという一軒家に、母親と姉と妹と、そして弟と暮らしている。
子供の頃には長くは生きないだろうと言われた弟アーニーも、もうすぐ18歳で、グレイプ家では母親の希望でアーニーの誕生日祝いを盛大にやろうと計画している。内々ではなく、近所の人も呼ぼうと言うことだ。
町の雑貨店で働くギルバートはアーニーを職場に一緒に連れてきて、いつも面倒をみている。妹は学校だし、姉も働いているし、母親には任せられないからだ。何故か。実は、父親は17年前に亡くなっており、以来母は家から出ていこうとせず、というか、居間から離れようとせず、7年前からは日がなソファに座ってテレビを見ているだけ。食事もギルバートや姉が作り、毎回、食卓をソファの前に運んで食事を摂っているくらいなのだ。その為に母親はビヤ樽のように太ってしまい、アーニーの世話どころではない。
子供たちは、そんな母親を夫を亡くしたショックのせいだと可愛そうに思い、決して責めることはしない。近所の子供たちが物珍しそうに母の姿を外から覗くのも、母親には知らせないようにしている。
そんな田舎町に、トレーラー暮らしをしている一団がやってくる。毎年、トレーラーの一群が陽光を跳ね返しながらやって来るのを楽しみにしているアーニーに付き合っていたギルバートは、お祖母ちゃんと二人でトレーラー暮らしをしている少女ベッキーと知り合う。両親が離婚して以来、旅から旅の暮らしに慣れているというベッキーは、何処か人生を達観した雰囲気をもった少女だった。彼女はギルバートの店にも買い物に来、ギルバートは惹かれるものを感じた。
アーニーは高い所に登るのが好きで、家の庭にある高い樹にも良く登るが、町に出かけた時には、ギルバートの目を盗んで高架水槽タンクの鉄塔に登り、警察のお世話になることもしばしばだった。
誕生日も間近に迫ったある日、アーニーが又してもタンクに登り、とうとう梯子車まで出動する騒ぎになった。警察は今回はお灸を据えようとアーニーをパトカーに入れて留置場に連れて行くが、それを聞いた母親は、十数年ぶりに町まで出かけて、署長に息子を返すようにと息巻くのだった。あまりの剣幕に、アーニーは釈放され家に帰れることになったが、警察署を出ようとした母親は、町の人々が自分を好奇の目で見ているのに気付くのだった・・・。
これは、ハルストレムお得意の再生がテーマの映画ですね。
久しぶりに町に出て、他人の目を意識した母親は、子供たちに如何に迷惑をかけていたかと気付き、暫くしてソファから離れる決心をする。
配達にかこつけて昼間っから余所んちに上がり込み、町の保険屋の奥さんと懇ろになっていたギルバートも、ベッキーとのふれ合いの中で、惰性で生きてきた自分に気付かされる。
大きくはこの二人の再生物語で、そこに保険屋の奥さんの嫉妬やら、寂れていく旧い雑貨屋と、進出してくるハンバーガー・ショップや大型スーパー・マーケットの対比などが描かれる。
「ラスト・ショー」では町全体が衰退していっている雰囲気でしたが、コチラはそれ程の描き方ではなかったですね。そもそもが個人の再生がテーマだし、象徴的な意味合いもそれほど響いてはこなかったです。
静かな、淡々とした物語は、スウェーデン時代の「やかまし村」をも思い出すような感じ。
ポイントとなるベッキーについて良く分からないのと、主人公のデップに無国籍のイメージがあって、アメリカ中西部の物語という雰囲気があまり感じられないので、いまいち声を上げてお薦めする気になれない映画です。
人妻との関係やら、友人達との関係も特別変わったものでもなかったし、葛藤も少なかったしね。
賞関連では、レオナルド・ディカプリオが、アカデミー賞とゴールデン・グローブ賞で助演男優賞にノミネートされ、LA批評家協会賞ではニュー・ジェネレーション賞というのを受賞したそうです。
▼(ネタバレ注意)
ソファから離れた母親は2階の自分のベッドまで行くけれど、その後眠るように死んでしまう。
重たい彼女を運ぶのは大変で、多分クレーンなどの重機が必要になり、その作業は母親をさらし者にしてしまうのではないかと、ギルバート達は悩む。結局、ギルバートは家財を家の外に出して、母親を家ごと燃やすことにする。
この終盤のシーンは突拍子もない展開で、最初に観た時も驚きました。今回、冷静に観ていると、家が一軒燃えているのに消防車も来ないし、野次馬も出てこないのが不自然に思えました。
そんなのが来たら“さらし者”にするのと同じ事なんで、描くことは無かったんだけれど、これってどうなんだろう?
尚、父親の死因は自殺。地下室で首を吊ったとのこと。感情を表に出さない男だったようなので、妻にとっては思いもかけないタイミングで伴侶を失ったのでしょう。
出てきませんでしたが、ギルバート達には余所で暮らしている長男が居ると冒頭で紹介がありました。それと、一番下の妹は15歳。ン? 彼女の父親って誰なんだろう?
▲(解除)
ハルストレム監督のハリウッド2作目とのこと。1作目って何だろう? 日本未公開という「ワンス・アラウンド (1991)」がソレだろうか。
「ギルバート・グレイプ」は1993年の作品で、ジョニー・デップが主演。デップの知的障害者の弟役で若いディカプリオが出ていて、最初に観た時はディカプリオの名前も知らず、まるで作り物でないような演技が凄く印象に残っていた。もう随分前で、その時はレンタルビデオ(VHS)での鑑賞。今回はNHK-BS放送の録画でした。
allcinema-onlineでは<どこか「ラスト・ショー」を思わせる、アメリカ中西部の田舎町>が舞台だと紹介されている。
知的障害者の弟がいるところ、主人公が田舎町を離れられないところ、人妻と懇ろになっているところ、確かにそういう設定は似ていますが、「ラスト・ショー」が全く夢も希望もない悲観的な、厭世観さえ漂うような作品であることを考えると、かなり印象は違います。「ギルバート・グレイプ」をお好きな方が、上に引用した文章に引かれて「ラスト・ショー」を観られるとガックリこられること間違い無しなのでご注意申し上げておきましょう。
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デップ扮するギルバートはアイオワののどかな田舎町に住む青年。父親が建てたという一軒家に、母親と姉と妹と、そして弟と暮らしている。
子供の頃には長くは生きないだろうと言われた弟アーニーも、もうすぐ18歳で、グレイプ家では母親の希望でアーニーの誕生日祝いを盛大にやろうと計画している。内々ではなく、近所の人も呼ぼうと言うことだ。
町の雑貨店で働くギルバートはアーニーを職場に一緒に連れてきて、いつも面倒をみている。妹は学校だし、姉も働いているし、母親には任せられないからだ。何故か。実は、父親は17年前に亡くなっており、以来母は家から出ていこうとせず、というか、居間から離れようとせず、7年前からは日がなソファに座ってテレビを見ているだけ。食事もギルバートや姉が作り、毎回、食卓をソファの前に運んで食事を摂っているくらいなのだ。その為に母親はビヤ樽のように太ってしまい、アーニーの世話どころではない。
子供たちは、そんな母親を夫を亡くしたショックのせいだと可愛そうに思い、決して責めることはしない。近所の子供たちが物珍しそうに母の姿を外から覗くのも、母親には知らせないようにしている。
そんな田舎町に、トレーラー暮らしをしている一団がやってくる。毎年、トレーラーの一群が陽光を跳ね返しながらやって来るのを楽しみにしているアーニーに付き合っていたギルバートは、お祖母ちゃんと二人でトレーラー暮らしをしている少女ベッキーと知り合う。両親が離婚して以来、旅から旅の暮らしに慣れているというベッキーは、何処か人生を達観した雰囲気をもった少女だった。彼女はギルバートの店にも買い物に来、ギルバートは惹かれるものを感じた。
アーニーは高い所に登るのが好きで、家の庭にある高い樹にも良く登るが、町に出かけた時には、ギルバートの目を盗んで高架水槽タンクの鉄塔に登り、警察のお世話になることもしばしばだった。
誕生日も間近に迫ったある日、アーニーが又してもタンクに登り、とうとう梯子車まで出動する騒ぎになった。警察は今回はお灸を据えようとアーニーをパトカーに入れて留置場に連れて行くが、それを聞いた母親は、十数年ぶりに町まで出かけて、署長に息子を返すようにと息巻くのだった。あまりの剣幕に、アーニーは釈放され家に帰れることになったが、警察署を出ようとした母親は、町の人々が自分を好奇の目で見ているのに気付くのだった・・・。
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これは、ハルストレムお得意の再生がテーマの映画ですね。
久しぶりに町に出て、他人の目を意識した母親は、子供たちに如何に迷惑をかけていたかと気付き、暫くしてソファから離れる決心をする。
配達にかこつけて昼間っから余所んちに上がり込み、町の保険屋の奥さんと懇ろになっていたギルバートも、ベッキーとのふれ合いの中で、惰性で生きてきた自分に気付かされる。
大きくはこの二人の再生物語で、そこに保険屋の奥さんの嫉妬やら、寂れていく旧い雑貨屋と、進出してくるハンバーガー・ショップや大型スーパー・マーケットの対比などが描かれる。
「ラスト・ショー」では町全体が衰退していっている雰囲気でしたが、コチラはそれ程の描き方ではなかったですね。そもそもが個人の再生がテーマだし、象徴的な意味合いもそれほど響いてはこなかったです。
静かな、淡々とした物語は、スウェーデン時代の「やかまし村」をも思い出すような感じ。
ポイントとなるベッキーについて良く分からないのと、主人公のデップに無国籍のイメージがあって、アメリカ中西部の物語という雰囲気があまり感じられないので、いまいち声を上げてお薦めする気になれない映画です。
人妻との関係やら、友人達との関係も特別変わったものでもなかったし、葛藤も少なかったしね。
賞関連では、レオナルド・ディカプリオが、アカデミー賞とゴールデン・グローブ賞で助演男優賞にノミネートされ、LA批評家協会賞ではニュー・ジェネレーション賞というのを受賞したそうです。
▼(ネタバレ注意)
ソファから離れた母親は2階の自分のベッドまで行くけれど、その後眠るように死んでしまう。
重たい彼女を運ぶのは大変で、多分クレーンなどの重機が必要になり、その作業は母親をさらし者にしてしまうのではないかと、ギルバート達は悩む。結局、ギルバートは家財を家の外に出して、母親を家ごと燃やすことにする。
この終盤のシーンは突拍子もない展開で、最初に観た時も驚きました。今回、冷静に観ていると、家が一軒燃えているのに消防車も来ないし、野次馬も出てこないのが不自然に思えました。
そんなのが来たら“さらし者”にするのと同じ事なんで、描くことは無かったんだけれど、これってどうなんだろう?
尚、父親の死因は自殺。地下室で首を吊ったとのこと。感情を表に出さない男だったようなので、妻にとっては思いもかけないタイミングで伴侶を失ったのでしょう。
出てきませんでしたが、ギルバート達には余所で暮らしている長男が居ると冒頭で紹介がありました。それと、一番下の妹は15歳。ン? 彼女の父親って誰なんだろう?
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・お薦め度【★★★=一見の価値あり】
しかし、お薦め度はテーマとかも含めた好みの問題が深く関与しておりまして(^^)、主人公達の葛藤がより明確に感じられる「サイダー・ハウス・ルール」や「シッピング・ニュース」、「アン・フィニッシュライフ」の方が★の数が多くなりました。
>後の目のふち真っ黒デップより本作の彼は、よいように思いました。
演技はいいんですが、最初に観た時からどうにも中西部のアメリカ青年には見えなかったんですよね。
多分初めてデップ君を観たはずなんですがネ。
本作のこと、書いております。
・・・完成度が高いとかホザいて、お、おりますぅ。
後の目のふち真っ黒デップより本作の彼は、よいように思いました。
ディカプリオは当時19歳。あの「タイタニック」はわずか4年後。
イタリア人の父親とドイツ人の母親の間に生まれたらしいのですね。
うん、なんとなくフランス語が似合いそうな雰囲気も感じたりして・・・^^
よく言われることですが、ディカプリオの演技はほんとうに素晴らしかったですよね。わたしはあまり彼が好きではなかったんですが、この作品だけは例外、という事になりそうです。
特別なことはあまり起こらないけれど、じんわり余韻が残るところが好きな作品です。