7月2日(日)今日の天候曇り 28℃ 風強し
カミさんと朝9時に自宅を出発し、グループホームSEEDSへ向かった。
今日は日曜日だが、娘たちの帰宅日である。
二人とも元気だ。
そしてその後11時に約束していた中古ストーブを寄贈する方がいて、
また城東まで軽トラックでいただきに出かけた。
昨日今日と夏日であり、そこそこに暑い。しかし風も強くて暑さが
解消されている。それにしても雨が降らない。
藤沢周平の用心棒シリーズ「用心棒日月抄」を読み終えた。
一度読み始めると、藤沢周平の世界にのめりこむ自分がいる。
人間が最も人間らしく見えるのは、裕福な何も困らない暮らしの中よりも、
その日暮らしのような毎日が飢えとの闘いの日々の方が、人間の本性がさらけ出されて面白い気がする。
もちろん飢えた人々の暮らしが面白いのではなく、貧しさの中にお互いの気遣いのような「困ったときにはお互い様」的なものが
表現される面白さといえばよいのだろうか。はたまた人間としての飢えから這いだしたい心理が、そこに這い出すのだ。泥棒、かどわかし
強盗、人殺し、盗人、色町、飲み屋・・・。
そして藤沢が描く世界には、どことなく純で朴訥な男の世界が「また明日はどうなるのだろう」という
不安感がいつも漂っている。
自分の貧しい学生時代を、つい連想してしまうのだ。
それはその日暮らしで、飢えとの戦いでもあった。アルバイトがあるうちはよいのだが、
それも自分の愚かさというのか気づまり感で会社を辞するときには、翌日からの収入がなくなるのである。
そういう意味では、今の境遇は天と地ともいえるのかもしれない。食うものも困ることもなく、
仕事の環境も安定的で、家族は一応健康でもあり、日々の暮らしに困ることもない。
人間は愚かしいもので、そういう幸福感を満足できないでいる自分がいるときがあるのだ。
ある時には自分の不甲斐なさに、またある時には職場の人間関係に暗澹とするものを感じたりもする。
完璧な生活などないと思った方がよいのかもしれないが、内面でのこれが人間としての日々の正体でもあろう。
藤沢周平の世界は、そういう人間としての赤裸々な世界が面白いのだ。
用心棒シリーズを、もう少し読みたい自分がここにいる。
カミさんと朝9時に自宅を出発し、グループホームSEEDSへ向かった。
今日は日曜日だが、娘たちの帰宅日である。
二人とも元気だ。
そしてその後11時に約束していた中古ストーブを寄贈する方がいて、
また城東まで軽トラックでいただきに出かけた。
昨日今日と夏日であり、そこそこに暑い。しかし風も強くて暑さが
解消されている。それにしても雨が降らない。
藤沢周平の用心棒シリーズ「用心棒日月抄」を読み終えた。
一度読み始めると、藤沢周平の世界にのめりこむ自分がいる。
人間が最も人間らしく見えるのは、裕福な何も困らない暮らしの中よりも、
その日暮らしのような毎日が飢えとの闘いの日々の方が、人間の本性がさらけ出されて面白い気がする。
もちろん飢えた人々の暮らしが面白いのではなく、貧しさの中にお互いの気遣いのような「困ったときにはお互い様」的なものが
表現される面白さといえばよいのだろうか。はたまた人間としての飢えから這いだしたい心理が、そこに這い出すのだ。泥棒、かどわかし
強盗、人殺し、盗人、色町、飲み屋・・・。
そして藤沢が描く世界には、どことなく純で朴訥な男の世界が「また明日はどうなるのだろう」という
不安感がいつも漂っている。
自分の貧しい学生時代を、つい連想してしまうのだ。
それはその日暮らしで、飢えとの戦いでもあった。アルバイトがあるうちはよいのだが、
それも自分の愚かさというのか気づまり感で会社を辞するときには、翌日からの収入がなくなるのである。
そういう意味では、今の境遇は天と地ともいえるのかもしれない。食うものも困ることもなく、
仕事の環境も安定的で、家族は一応健康でもあり、日々の暮らしに困ることもない。
人間は愚かしいもので、そういう幸福感を満足できないでいる自分がいるときがあるのだ。
ある時には自分の不甲斐なさに、またある時には職場の人間関係に暗澹とするものを感じたりもする。
完璧な生活などないと思った方がよいのかもしれないが、内面でのこれが人間としての日々の正体でもあろう。
藤沢周平の世界は、そういう人間としての赤裸々な世界が面白いのだ。
用心棒シリーズを、もう少し読みたい自分がここにいる。
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