あげちうのブロマガ

視える人と見えない人と

やっぱり、感覚の変化はある。

「令和」と言う元号と、或いはそこにある意識と言うか、変化だ。

「見てる奴が居る」のだ。
創作者はふと、”他者の視線”に気づいた…感じ。

ソニーの社長が変わった、事も感覚の変化にとっては一因だろうか。
ともかく「評価」されてしまう、上からだ、まず文句への懸念がそこに有る。

お前ら。

良くも悪くも、だ。

この絵は、かなり上手い。


ただ、この絵は少し、間違って?居る。

そう言う。

今まで、場所では問題視されなかったか、むしろ後者が評価された、のだが。
「見えない」と言う感覚の差は、ここには…実際はある。
そして、その後に有る絵?が、こういう。

最初にちらっと映る提督?の存在が、全体への”評価”に成っていて、良くも悪くもウザイ。

”この”領域は、今までもっと自由?だったのだ。
ストレスの発散か、体勢への反逆、そう言うのに満ちていた。
そして、世間もまた、それを容認していた、むしろ対価さえ出したのだけど。

遊んでる子供らの遊び方がなってない!と、怒る大人の様だ、向こうの意識としては。
しかし?発表する限りは、不特定多数がそれを見る、その視線は、結局はそう言う物で。
その視線の先に行く物にしか、世間はもちろん必要としない。

しかし。

「売れたい」と、「自由にやりたい」そのせめぎ合い、ではあり、今まで前者に負け続けて逆に潰れてきた、経緯はあって。
文化的には、平成は或いは毛沢東の様に、そんな反逆によって支えられ、そして定番の結末へと至った訳だが。

「評価する意識が視ている」

同人と言う世界、その先はどっちだろう。
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