台風一過 涼しさを通り越して朝晩寒くなってきました 小生も一病息災と言いますかなんとか頑張っています 先の連載 草鞋を履いた関東軍 製本出版することといたしました 今まで読んで下さった方には興味が無いと思いますが 小生にとっては人生の一大事 先日契約して 出版は来年二月頃との事 なかなか役のかかるものと思いました 制作費はおもっていたよりはるかに高いものですが乗り出した船とあきらめています では
続編のブログ一段落くし やれやれと思っている今日この頃です で これから思うままの随筆を書きたいと思っています 体調も次第によくなり今年秋になれば滝の整備や川に行けるかも、、、と思っています 昨日は孫に川漁の道具の作り方を教え この日本一きれいな仁淀川を生涯愛し忘れないよう教えこんでおかねばいかんと思い 山より竹を二人でき伐って来て ウナギ捕りのつつを作りました 二人なんぎして完成 これで今年はウナギが沢山捕れるものと思っています 又。。。。
続編のブログ一段落くし やれやれと思っている今日この頃です で これから思うままの随筆を書きたいと思っています 体調も次第によくなり今年秋になれば滝の整備や川に行けるかも、、、と思っています 昨日は孫に川漁の道具の作り方を教え この日本一きれいな仁淀川を生涯愛し忘れないよう教えこんでおかねばいかんと思い 山より竹を二人でき伐って来て ウナギ捕りのつつを作りました 二人なんぎして完成 これで今年はウナギが沢山捕れるものと思っています 又。。。。
草鞋を履いた関東軍 25
23-6-12
寒い北朝鮮の冬も節分を過ぎると少しは暖かい日もあり、内地への脱出、帰国の報が日々伝えられるようになった。しかし伊之助には、この帰国にはすぐには応じられない大きな悩みがあった。それは、あの彼女親子三人をどのようにして帰国させるか、であった。これが大問題である。あれからもう六年にもなる。子供も二人生れ楽しい日々であったのだが、予期せず日本が戦争に負けてしまった。困ったことになった。この親子三人を女房や家族に知られないよう日本に帰国させるにはどのようにすべきか、伊之助は悩んだ。そして一案を考えた。
ある夜家族を集め、「この大勢が帰国しても路頭に迷う事は明らかだ」「わしが一足先に帰って皆の落ち着く先を構えるから皆は頃合いを見て帰って来い」「とにかくわしが先に帰って皆の落ち着き場所を構える。」と我が案を必死に説明した、しかし、皆は爺さん一人帰すことは危険であり、とても心配だ、皆が一緒に帰るべきだ。爺さんの魂胆を誰も知らないので話はなかなかまとまらない、爺さん一人を帰す訳にはいかない、と反対の声が強かったが、爺さんの強い説得に一同しかたなく納得せざるを得なかった。
伊之助の覚悟は決まった。ある夜ひそかに朝鮮人の船を雇い脱出をこころみた。夕闇せまる約束の砂浜は、遥か馬息嶺から吹きおろす風が冷たい。雇っていた漁師の船と彼女親子を待った。予定通り薄闇の先に防空頭巾を被った親子三人、大きな荷物を背に息を弾ませながらやって来た。大きい方の児が「お父ちゃん」と爺さんに駆け寄った。伊之助は児の頭をさすりながら闇の海を睨みつつ、「船が来ん、船が来ん」とつぶやきながら、波打ち際に進み掌で灯台の光をさえぎりながらじっと沖を見つめていた。しかしいくら待っても漁師の船は現れなかった。折角のこの秘策もこの永興湾の泡となって消えてしまった。この名案大失敗、朝鮮の漁師にいっぱい食わされたのである。爺さん、更に次の案を考えた。こうなったら彼女の事、家族に打ち明け、皆と一緒に脱出する他はないと覚悟を決め、そしてよいことを考えた。居候の中平にそれとなく彼女の居る事を知らせれば、中平が女房や家族につげ口をするであろう、そうすれば一波乱あっても、自分から白状する事も無く、成り行きに任せ、なんとかこの場を乗り切れるではないか。そうして皆と一緒に連れだって内地に帰ろう、爺さんは心を決めた。
処がである。当の三郎、いままで何回か爺さんのお供をして彼女の家に行った、そして最近はその家の中にまで入れてくれる事がある。少年ながらも、これがいわゆる世間の言う「おめかけさん」と言うものだなと、遅まきながらも解って来た。「ははあーこの親父うまい事やってる。」奥さんに言ってやらねばと思った。しかし三郎は考えた、これを告げ口したらどうなる。一家はおおもめ、大喧嘩になるであろう、三郎を引き取って養ってくれている主はこの爺さんではないか、自分を信用してあの秘密の家にも何回か連れて行っている。ここで告げ口なんかはとても出来ない、三郎の忠誠心が働いた。絶対此の事は家族の者には言われん。もし告げ口して大騒動になれば我が居候の身も危ない。奥さんや他の家族の人にはまことに申し訳ないが、この秘密、この胸に閉まっておこう。三郎の気の重い日が続いた。一方爺さん中平に期待していたのだが一向にその気配がない。さりとて告げ口せよとも言えない。悶々の日が続く。もうこうなったら爺さん一波乱あるを覚悟。全部の事を皆に白状しょう、と計画を練り直した。今度は山越しで脱出を、それには信用できる案内人が必要。当時気の利いた朝鮮人は金稼ぎのため、脱国者を先導し、保安官をも取り込み三十八度線への脱出のルートを作り上げ、荒稼ぎの商売を始めていた。その人たちに頼めば無事三十八度線を潜りぬける事が出来るようである。それには相当の金が要るらしい、そしてある程度の仲間が居ないと追剥ぎにやられると言う。そこで爺さん、昔からの友人、知人を集め、二十人ほどの仲間も出来、脱出の段取り、日時も決った。
愈々切羽詰った爺さん、或る夜家族を集め、彼女の事、二人の子がいる事、先達て此の者を連れて秘かに脱出を試みた事、一切の事を家族の前に曝け出した。気が強く頑固な爺さん、自分自身から頭を下げ白状しなければならなかった事は。まことに辛い事ではあったが、もうこうなったら仕方のない事。
それから数日後愈々脱出の日がやって来た。総勢二十数名、街はずれの松林に集合、まだ夜の明けない薄暗い中、もう十数人来ている。その中に彼の親子三人の姿も見えた。三郎は以前より今日のこの事態が来ることを予想し、どんな場面が生じる事かと気をもんでいた。婆さん梅の顔を見るのも気が引けた。三郎は彼女の存在が家族に知れたあと、梅に彼女のことを問い糺された事があったが、あれこれとの細かな尋問はなかった。それだけに今の梅の心の葛藤を想像し、いたわしく三郎は出来るだけその場を離れ何知らぬ顔で見守った。仕方の無い事とはいえ、居候の身でありながら、この暖かい家族の中、爺さんのこの秘密を家族に隠して来たことは、この家族を裏切った事にもなり、まことに申し訳なく、三郎の心は重い。爺さんと同罪の気持である。
ややあって爺さんに促されたのであろう、近づいて来る彼の親子、沈黙の一刻、家族の凝視の中、彼女は無造作に防空頭巾を背に落し、頭を垂れたまま梅の前に進み深々と頭を下げた。なにか小さな声を発したが言葉にはならなかった。他人の三郎が見るべき場ではなかったが、ついつい好奇心の目はこれを見逃さなかった。梅の腹は据わっていた。さすが何十人もの従業人を使い、大きな料理屋の女将、ややあって笑顔になり会釈した、それだけで何も言うことはなかった。そして何事も無かったように近くに居た幸の手を引いて家族の輪に入った。三郎が心配するほどの事も無くあっさりと幕はおりた。
夜明け前、この脱出集団は街を抜け山に入り、小さな山を二つほど越え、一夜を朝鮮人の納屋に泊めてもらった。明ければ、山また山を難渋しながら潜り抜け、やっと三十八線と言う橋の近くまで来た。案内人がこの橋の近くで追剥ぎがよく出るから注意するようにとの事。此処までやっと辿り着いた一向、何十年もこの外地に来て働いて、働いて貯めた総財産、今は背なのリュックと手荷物だけ、これを盗られては一大事、皆は確と握り締める。三郎のリュックもいっぱい、しかし自分の物ではなかった。でも獲られたら大変だ。三郎に自分の荷物が有る筈がないが、家を出てから三年、義勇隊生活、終戦、ソ連軍との遭遇、捕虜、逃避行、そして居候生活。物的な財産、金銭は何一つ無いが、この苦労の体験こそ何ものにも代え難い自分の大きな財産、宝物である。これを忘れず自分のものとして日本に持ちかえらなければならない。
緊張と無言の時間が続いていたが橋が近づくと誰とも無く小走りに走り出した。幅五十メートルほどの川に崩れかけた橋が架かっている。この橋を無事渡れば、あの恐ろしいソ連兵からの脱出、そして自由の世界が待っている。皆最後の力を振り絞り走った。年寄りも子供も走った。橋は大きく揺れ、その揺れが疲れきった体に伝わってくる。華も幸も走った。なかでも主人重雄の奥さん、赤ん坊を連れての脱出、皆で助け合いながらどうやら無事全員渡河に成功、それにしても主人の重雄、「わしは日本人全員を無事この元山から日本に帰すまでは帰らん、ここに残って世話をする」この人も爺さんの息子、親に似て頑固、まことに他人(ひと)の真似の出来ない勇気ある行為、全く頭の下がる思い。この人達のお陰でどれほどの日本人が、難民が助けられた事か、感謝の気持ちは尽きない。
一行一安心しながらも脚を早め一キロくらい歩いたであろうか、そこには南側の入国を受け入れる検問所があり、アメリカ兵、そして日本人も居た。その人達により、段取りよく色々の手続きが行われた。検疫では頭から足の先まで白い粉剤を吹き付けられ、予防注射もされ、連合国司令官の大きなスタンプが印された通行許可証を貰った。
三郎はそれから数日後、昭和二十一年四月ニ十六日夕刻、わが故郷を望む丘に立っていた。「国破れ山河あり」杜甫の詩の如く青い山々、そして清き流れの音を聞きながら、暖かい我が家に浸ることが出来た。 完
23-6-12
寒い北朝鮮の冬も節分を過ぎると少しは暖かい日もあり、内地への脱出、帰国の報が日々伝えられるようになった。しかし伊之助には、この帰国にはすぐには応じられない大きな悩みがあった。それは、あの彼女親子三人をどのようにして帰国させるか、であった。これが大問題である。あれからもう六年にもなる。子供も二人生れ楽しい日々であったのだが、予期せず日本が戦争に負けてしまった。困ったことになった。この親子三人を女房や家族に知られないよう日本に帰国させるにはどのようにすべきか、伊之助は悩んだ。そして一案を考えた。
ある夜家族を集め、「この大勢が帰国しても路頭に迷う事は明らかだ」「わしが一足先に帰って皆の落ち着く先を構えるから皆は頃合いを見て帰って来い」「とにかくわしが先に帰って皆の落ち着き場所を構える。」と我が案を必死に説明した、しかし、皆は爺さん一人帰すことは危険であり、とても心配だ、皆が一緒に帰るべきだ。爺さんの魂胆を誰も知らないので話はなかなかまとまらない、爺さん一人を帰す訳にはいかない、と反対の声が強かったが、爺さんの強い説得に一同しかたなく納得せざるを得なかった。
伊之助の覚悟は決まった。ある夜ひそかに朝鮮人の船を雇い脱出をこころみた。夕闇せまる約束の砂浜は、遥か馬息嶺から吹きおろす風が冷たい。雇っていた漁師の船と彼女親子を待った。予定通り薄闇の先に防空頭巾を被った親子三人、大きな荷物を背に息を弾ませながらやって来た。大きい方の児が「お父ちゃん」と爺さんに駆け寄った。伊之助は児の頭をさすりながら闇の海を睨みつつ、「船が来ん、船が来ん」とつぶやきながら、波打ち際に進み掌で灯台の光をさえぎりながらじっと沖を見つめていた。しかしいくら待っても漁師の船は現れなかった。折角のこの秘策もこの永興湾の泡となって消えてしまった。この名案大失敗、朝鮮の漁師にいっぱい食わされたのである。爺さん、更に次の案を考えた。こうなったら彼女の事、家族に打ち明け、皆と一緒に脱出する他はないと覚悟を決め、そしてよいことを考えた。居候の中平にそれとなく彼女の居る事を知らせれば、中平が女房や家族につげ口をするであろう、そうすれば一波乱あっても、自分から白状する事も無く、成り行きに任せ、なんとかこの場を乗り切れるではないか。そうして皆と一緒に連れだって内地に帰ろう、爺さんは心を決めた。
処がである。当の三郎、いままで何回か爺さんのお供をして彼女の家に行った、そして最近はその家の中にまで入れてくれる事がある。少年ながらも、これがいわゆる世間の言う「おめかけさん」と言うものだなと、遅まきながらも解って来た。「ははあーこの親父うまい事やってる。」奥さんに言ってやらねばと思った。しかし三郎は考えた、これを告げ口したらどうなる。一家はおおもめ、大喧嘩になるであろう、三郎を引き取って養ってくれている主はこの爺さんではないか、自分を信用してあの秘密の家にも何回か連れて行っている。ここで告げ口なんかはとても出来ない、三郎の忠誠心が働いた。絶対此の事は家族の者には言われん。もし告げ口して大騒動になれば我が居候の身も危ない。奥さんや他の家族の人にはまことに申し訳ないが、この秘密、この胸に閉まっておこう。三郎の気の重い日が続いた。一方爺さん中平に期待していたのだが一向にその気配がない。さりとて告げ口せよとも言えない。悶々の日が続く。もうこうなったら爺さん一波乱あるを覚悟。全部の事を皆に白状しょう、と計画を練り直した。今度は山越しで脱出を、それには信用できる案内人が必要。当時気の利いた朝鮮人は金稼ぎのため、脱国者を先導し、保安官をも取り込み三十八度線への脱出のルートを作り上げ、荒稼ぎの商売を始めていた。その人たちに頼めば無事三十八度線を潜りぬける事が出来るようである。それには相当の金が要るらしい、そしてある程度の仲間が居ないと追剥ぎにやられると言う。そこで爺さん、昔からの友人、知人を集め、二十人ほどの仲間も出来、脱出の段取り、日時も決った。
愈々切羽詰った爺さん、或る夜家族を集め、彼女の事、二人の子がいる事、先達て此の者を連れて秘かに脱出を試みた事、一切の事を家族の前に曝け出した。気が強く頑固な爺さん、自分自身から頭を下げ白状しなければならなかった事は。まことに辛い事ではあったが、もうこうなったら仕方のない事。
それから数日後愈々脱出の日がやって来た。総勢二十数名、街はずれの松林に集合、まだ夜の明けない薄暗い中、もう十数人来ている。その中に彼の親子三人の姿も見えた。三郎は以前より今日のこの事態が来ることを予想し、どんな場面が生じる事かと気をもんでいた。婆さん梅の顔を見るのも気が引けた。三郎は彼女の存在が家族に知れたあと、梅に彼女のことを問い糺された事があったが、あれこれとの細かな尋問はなかった。それだけに今の梅の心の葛藤を想像し、いたわしく三郎は出来るだけその場を離れ何知らぬ顔で見守った。仕方の無い事とはいえ、居候の身でありながら、この暖かい家族の中、爺さんのこの秘密を家族に隠して来たことは、この家族を裏切った事にもなり、まことに申し訳なく、三郎の心は重い。爺さんと同罪の気持である。
ややあって爺さんに促されたのであろう、近づいて来る彼の親子、沈黙の一刻、家族の凝視の中、彼女は無造作に防空頭巾を背に落し、頭を垂れたまま梅の前に進み深々と頭を下げた。なにか小さな声を発したが言葉にはならなかった。他人の三郎が見るべき場ではなかったが、ついつい好奇心の目はこれを見逃さなかった。梅の腹は据わっていた。さすが何十人もの従業人を使い、大きな料理屋の女将、ややあって笑顔になり会釈した、それだけで何も言うことはなかった。そして何事も無かったように近くに居た幸の手を引いて家族の輪に入った。三郎が心配するほどの事も無くあっさりと幕はおりた。
夜明け前、この脱出集団は街を抜け山に入り、小さな山を二つほど越え、一夜を朝鮮人の納屋に泊めてもらった。明ければ、山また山を難渋しながら潜り抜け、やっと三十八線と言う橋の近くまで来た。案内人がこの橋の近くで追剥ぎがよく出るから注意するようにとの事。此処までやっと辿り着いた一向、何十年もこの外地に来て働いて、働いて貯めた総財産、今は背なのリュックと手荷物だけ、これを盗られては一大事、皆は確と握り締める。三郎のリュックもいっぱい、しかし自分の物ではなかった。でも獲られたら大変だ。三郎に自分の荷物が有る筈がないが、家を出てから三年、義勇隊生活、終戦、ソ連軍との遭遇、捕虜、逃避行、そして居候生活。物的な財産、金銭は何一つ無いが、この苦労の体験こそ何ものにも代え難い自分の大きな財産、宝物である。これを忘れず自分のものとして日本に持ちかえらなければならない。
緊張と無言の時間が続いていたが橋が近づくと誰とも無く小走りに走り出した。幅五十メートルほどの川に崩れかけた橋が架かっている。この橋を無事渡れば、あの恐ろしいソ連兵からの脱出、そして自由の世界が待っている。皆最後の力を振り絞り走った。年寄りも子供も走った。橋は大きく揺れ、その揺れが疲れきった体に伝わってくる。華も幸も走った。なかでも主人重雄の奥さん、赤ん坊を連れての脱出、皆で助け合いながらどうやら無事全員渡河に成功、それにしても主人の重雄、「わしは日本人全員を無事この元山から日本に帰すまでは帰らん、ここに残って世話をする」この人も爺さんの息子、親に似て頑固、まことに他人(ひと)の真似の出来ない勇気ある行為、全く頭の下がる思い。この人達のお陰でどれほどの日本人が、難民が助けられた事か、感謝の気持ちは尽きない。
一行一安心しながらも脚を早め一キロくらい歩いたであろうか、そこには南側の入国を受け入れる検問所があり、アメリカ兵、そして日本人も居た。その人達により、段取りよく色々の手続きが行われた。検疫では頭から足の先まで白い粉剤を吹き付けられ、予防注射もされ、連合国司令官の大きなスタンプが印された通行許可証を貰った。
三郎はそれから数日後、昭和二十一年四月ニ十六日夕刻、わが故郷を望む丘に立っていた。「国破れ山河あり」杜甫の詩の如く青い山々、そして清き流れの音を聞きながら、暖かい我が家に浸ることが出来た。 完
草鞋を履いた関東軍 24
ソ連の将校達が遊びに来て数日たつた、ある寒い夜であった。省造と三郎の寝ている部屋にドタドタと靴音と共にピストルを構えたロスケが這入って来た。ピストルの手を横に振りふりしながら、ダバィダバィと招く、そして二人は母屋に連れて行かれた、そこには家族一同部屋の片隅に集められ、別のソ連兵にピストルを突きつけられていた。きかん気の強い伊之助爺さんも、ピストルの前ではどうする事も出来ないのであろう、あきらめ顔で家族の中におとなしくしていた。もう一人のソ連兵は奥の重雄の部屋で家捜しをしている。家族一同二人のピストルの前で恐怖の沈黙が続いた。強盗は重雄の部屋にあった世話会の金すべてをかっさらい、私共にピストルを向けたまま後ずざりに逃げて行った。その中の一人は先日将校達と一緒に遊びに来ていた従卒の一人のようであった。この家に世話会の金がある事を知っての犯行であろう、あの将校達もぐるではなかろうか?
重雄はこの事件をしかるべき処に訴えていたのであろう、数日後、ソ連軍により裁判があり、参考人として聖子姉さんが呼ばれた、形式的な裁判が行われたようで、犯人は本国に送られたとの事であるが真偽の程はさだかではない。
このような事態のなか、この家に又老夫婦の居候がやって来た。三郎のように満州から命からがら、ようやくここ元山にたどりついたとの事。この二人は昔この家の料理屋「桂月」が華やかなりし頃の従業員で、婦人の方は「奴さん」と親しまれ当店きっての売っこ妓芸者だったとの事。お国は四国高松の人と聞く、先任居候三郎は、新しい居候が来たので少し肩を張ったのだが、この前歴を持った奴さん夫婦には太刀打ち出来ない、より一層肩身は狭くなった。早くも、その日のうちに三郎の部屋は、この新入り居候にあてがわれた。なんたることぞ三郎の心は沈んだ。処がである。三郎にとって思わぬ嬉しい事が起こった。行く部屋の無くなった省造と二人、その夜より、華の居る部屋に移る事になったのである。居候の身でありながら、このべっぴんさんの華に思いを寄せていたのである。その華の部屋に同居出来るのである。何と幸な事であろうか、しかし華は三郎のことは一切無頓着、今まで一回も言葉を交わした事は無かった。「この田舎者が」と心では思っているのだろう、しかし意地悪や嫌な顔を見せた事はなかった、それは華だけではなく他の家族の人もそうであった。華と一緒の部屋といっても、省造、聖子、幸子との大勢の部屋である。それでもいい三郎は人知れず幸を噛み締めていた。
又の日、伊之助爺さんのお供をして街に行くことになった。昨夜皆で巻いた闇煙草を売りに行くのである。煙草は闇市から買って来た茶褐色の大きな葉っぱに、これも市から買って来た単舎利別(たんしゃりべつ)(シロップ)を霧吹きで吹きつけ、これを大きな彩刀で一ミリほどに切り刻み、これを小さな棒に十センチほどの紙を旗のように張り付けた簡単な道具で巻くのである、慣れてくるとまことに面白いほどよく巻ける、立派な巻きタバコが出来上がるのである。この伊之助爺さん、ここにあの大きな料理屋をたちあげた知恵、工夫、努力が有るのだな。と三郎は感じ入った。また裏の木小屋の棚には、自家製のウニのビンに貼るレッテル、付きだし用に使ったレッテルが沢山残っていた、これらもすべてこの爺さんの考案したものであろう、三郎はこの爺さんの渡世の術を身をもって体験することとなった。
三郎は大きな大八車に煙草の入った箱を積み、爺さんのお供をするのである。大八車はこの時代日本ではほとんどリヤカーに代わっており珍しい物であった。三郎は小父さんから貰ったお古のジャンバーを着ているのだが、これが大きいので手に被さって来る。これをうまく手袋代わりにして、車の手木を掴み爺さんの後に従う、市中に出ると爺さんの知り合い先を何箇所も回り煙草を卸して廻る。嘗ては料理屋の大旦那が、今は自家製の闇煙草を売って廻らなければならない事は本人にとって屈辱的な事であろうと思うのだが、そこは裸一貫でやりあげた商人(あきんど)根性があり、また商才と言うものであろう、何も収入の無くなった今を生きてゆかねばならない、また大勢の家族、それに居候まで養わなければならない。煙草は難なく全部売りきった。その足で市場に寄って次の製品を作るべく煙草の葉っぱを仕入れる。市と言うものを見たことも無かった三郎にとっては驚きの連続であった。戦争で何も無くなったと思っていた生活用品、ここには有るは、有るはなんでもある。日本人が大切にしていた品々、それ等のものが生活のため手放なされたのであろう、衣料品から靴、帽子にいたるまで、金さえあれば何でも手に入る大市場である。穀物は地べたにピラミット型に積まれ売られている。品を売る人はすべてチマチョゴリを着た朝鮮のオモニである。そのオモニが立て膝をしている。これにも驚いた、日本の女性がこんな格好をしていたらなんとも見られない様である。また魚の市で吃驚した事は、そのオモニが売っているカニの腹に喰らいついている、それは卵を沢山抱えたカニの卵を生で喰らっているのである。大勢の中、平気な顔でがぶがぶといかにも美味そうにしゃぶりついている。まったく三郎にとってはギョっとする光景であった。広い市場、珍しい品々を見て廻り、主従はやっと帰路についた。町外れに来ると爺さん突然「中平お前に忍術を教えてやろう、しかしこれは他の人には内緒だぞ!」と言う、「いつか役に立つ事があるかも知れん」と爺さんは次のような呪文を唱へた『山奥のΟΟΟΟΟΟΟΟΟとなれ』「えイ!」と大声で叫んだ。三郎吃驚仰天、これでどんな場合でも、その場の危機を逃れる事が出来る。「わしが使用人の朝鮮人と喧嘩になった時、この手に噛み付かれ、何としても離さなくなった。その時この呪文を唱え喝を入れると、これを離す事が出来た。 今もその痕が残っている。これを見て、と手の甲を見せてくれた。なるほど相当強く喰いつかれたのであろう、今も鮮やかにその痕が残っていた。三郎はよい術を教えてもらった。人には言はれんがしっかり覚えておこうと思った。そしてついでに忍術で我が身が消える方法?も教えてもらえないものかとも思いつつ、堀切を廻って松林に入った。暫く歩くと、家の方向と違う道に這入って行く、さてはと案じつつ従うと、低い板壁に囲まれた小さな家の近くに来ると、「中平ちょっとここで待ってて、、、」と言いながらその家に這入って行く、するとその家の戸が少し開いて四、五才くらいの男の子が「お父ちゃん!」と叫びながら走り出て来た。その奥に色白で細顔の女の人がこちらを覗いていた。 つづく
ソ連の将校達が遊びに来て数日たつた、ある寒い夜であった。省造と三郎の寝ている部屋にドタドタと靴音と共にピストルを構えたロスケが這入って来た。ピストルの手を横に振りふりしながら、ダバィダバィと招く、そして二人は母屋に連れて行かれた、そこには家族一同部屋の片隅に集められ、別のソ連兵にピストルを突きつけられていた。きかん気の強い伊之助爺さんも、ピストルの前ではどうする事も出来ないのであろう、あきらめ顔で家族の中におとなしくしていた。もう一人のソ連兵は奥の重雄の部屋で家捜しをしている。家族一同二人のピストルの前で恐怖の沈黙が続いた。強盗は重雄の部屋にあった世話会の金すべてをかっさらい、私共にピストルを向けたまま後ずざりに逃げて行った。その中の一人は先日将校達と一緒に遊びに来ていた従卒の一人のようであった。この家に世話会の金がある事を知っての犯行であろう、あの将校達もぐるではなかろうか?
重雄はこの事件をしかるべき処に訴えていたのであろう、数日後、ソ連軍により裁判があり、参考人として聖子姉さんが呼ばれた、形式的な裁判が行われたようで、犯人は本国に送られたとの事であるが真偽の程はさだかではない。
このような事態のなか、この家に又老夫婦の居候がやって来た。三郎のように満州から命からがら、ようやくここ元山にたどりついたとの事。この二人は昔この家の料理屋「桂月」が華やかなりし頃の従業員で、婦人の方は「奴さん」と親しまれ当店きっての売っこ妓芸者だったとの事。お国は四国高松の人と聞く、先任居候三郎は、新しい居候が来たので少し肩を張ったのだが、この前歴を持った奴さん夫婦には太刀打ち出来ない、より一層肩身は狭くなった。早くも、その日のうちに三郎の部屋は、この新入り居候にあてがわれた。なんたることぞ三郎の心は沈んだ。処がである。三郎にとって思わぬ嬉しい事が起こった。行く部屋の無くなった省造と二人、その夜より、華の居る部屋に移る事になったのである。居候の身でありながら、このべっぴんさんの華に思いを寄せていたのである。その華の部屋に同居出来るのである。何と幸な事であろうか、しかし華は三郎のことは一切無頓着、今まで一回も言葉を交わした事は無かった。「この田舎者が」と心では思っているのだろう、しかし意地悪や嫌な顔を見せた事はなかった、それは華だけではなく他の家族の人もそうであった。華と一緒の部屋といっても、省造、聖子、幸子との大勢の部屋である。それでもいい三郎は人知れず幸を噛み締めていた。
又の日、伊之助爺さんのお供をして街に行くことになった。昨夜皆で巻いた闇煙草を売りに行くのである。煙草は闇市から買って来た茶褐色の大きな葉っぱに、これも市から買って来た単舎利別(たんしゃりべつ)(シロップ)を霧吹きで吹きつけ、これを大きな彩刀で一ミリほどに切り刻み、これを小さな棒に十センチほどの紙を旗のように張り付けた簡単な道具で巻くのである、慣れてくるとまことに面白いほどよく巻ける、立派な巻きタバコが出来上がるのである。この伊之助爺さん、ここにあの大きな料理屋をたちあげた知恵、工夫、努力が有るのだな。と三郎は感じ入った。また裏の木小屋の棚には、自家製のウニのビンに貼るレッテル、付きだし用に使ったレッテルが沢山残っていた、これらもすべてこの爺さんの考案したものであろう、三郎はこの爺さんの渡世の術を身をもって体験することとなった。
三郎は大きな大八車に煙草の入った箱を積み、爺さんのお供をするのである。大八車はこの時代日本ではほとんどリヤカーに代わっており珍しい物であった。三郎は小父さんから貰ったお古のジャンバーを着ているのだが、これが大きいので手に被さって来る。これをうまく手袋代わりにして、車の手木を掴み爺さんの後に従う、市中に出ると爺さんの知り合い先を何箇所も回り煙草を卸して廻る。嘗ては料理屋の大旦那が、今は自家製の闇煙草を売って廻らなければならない事は本人にとって屈辱的な事であろうと思うのだが、そこは裸一貫でやりあげた商人(あきんど)根性があり、また商才と言うものであろう、何も収入の無くなった今を生きてゆかねばならない、また大勢の家族、それに居候まで養わなければならない。煙草は難なく全部売りきった。その足で市場に寄って次の製品を作るべく煙草の葉っぱを仕入れる。市と言うものを見たことも無かった三郎にとっては驚きの連続であった。戦争で何も無くなったと思っていた生活用品、ここには有るは、有るはなんでもある。日本人が大切にしていた品々、それ等のものが生活のため手放なされたのであろう、衣料品から靴、帽子にいたるまで、金さえあれば何でも手に入る大市場である。穀物は地べたにピラミット型に積まれ売られている。品を売る人はすべてチマチョゴリを着た朝鮮のオモニである。そのオモニが立て膝をしている。これにも驚いた、日本の女性がこんな格好をしていたらなんとも見られない様である。また魚の市で吃驚した事は、そのオモニが売っているカニの腹に喰らいついている、それは卵を沢山抱えたカニの卵を生で喰らっているのである。大勢の中、平気な顔でがぶがぶといかにも美味そうにしゃぶりついている。まったく三郎にとってはギョっとする光景であった。広い市場、珍しい品々を見て廻り、主従はやっと帰路についた。町外れに来ると爺さん突然「中平お前に忍術を教えてやろう、しかしこれは他の人には内緒だぞ!」と言う、「いつか役に立つ事があるかも知れん」と爺さんは次のような呪文を唱へた『山奥のΟΟΟΟΟΟΟΟΟとなれ』「えイ!」と大声で叫んだ。三郎吃驚仰天、これでどんな場合でも、その場の危機を逃れる事が出来る。「わしが使用人の朝鮮人と喧嘩になった時、この手に噛み付かれ、何としても離さなくなった。その時この呪文を唱え喝を入れると、これを離す事が出来た。 今もその痕が残っている。これを見て、と手の甲を見せてくれた。なるほど相当強く喰いつかれたのであろう、今も鮮やかにその痕が残っていた。三郎はよい術を教えてもらった。人には言はれんがしっかり覚えておこうと思った。そしてついでに忍術で我が身が消える方法?も教えてもらえないものかとも思いつつ、堀切を廻って松林に入った。暫く歩くと、家の方向と違う道に這入って行く、さてはと案じつつ従うと、低い板壁に囲まれた小さな家の近くに来ると、「中平ちょっとここで待ってて、、、」と言いながらその家に這入って行く、するとその家の戸が少し開いて四、五才くらいの男の子が「お父ちゃん!」と叫びながら走り出て来た。その奥に色白で細顔の女の人がこちらを覗いていた。 つづく
草鞋を履いた関東軍 23
23 4 28
昨日焼酎を飲まされ、酔っぱらった事件?は何とか家の者には気付かれること無く今日が始まった。
年下の兄貴?省造が「中平今日は街へ遊びに行こう」と言う、年下の省造が、「中平」と呼捨てにするのには三郎もちょっとは頭に来るのだが、それで良い、それでいい、我は居候の身、と自分に言い聞かせる。「はい!連れて行って!」二人は連れ立って市街へと向かう。街までの道は使役に出る度に通っているので、三郎にとって珍しい道ではなかったが、今日は初めての市内見物、そして省造が生まれ育った家「桂月」と言う大きな料理屋に案内してくれた。省造は「ここが内の店だったの、、」とつかつかと中へ入って行く。そこは我が伊之助老夫婦が腕一つで築きあげた市内随一の料理屋であった。が終戦と共に、使用人の朝鮮人の手に渡ったのである。戦時中は軍関係のお客で大繁盛したと言う、三郎も入って行くと、元従業員であったと言う人が出て来た。二人を見て一瞬顔を曇らせたが、すぐ愛想よく応じてくれ、唐辛子を真っ赤に振りかけた、辛いからいうどんをご馳走してくれた。店を出て、今度は映画を見ようと言うことになった。日本人は入れないというのだが、省造は、黙っていれば分かるものか、入ったら話をしないとの約束で木戸をくぐった。場内は満員の朝鮮人、その中へ割り込んだ。映画はソ連ものを朝鮮語で上映している。何を言っているのかさっぱり分からないが、洋画を見たことも無い三郎は興味津々、二人は無言で一ときを過ごした。
その後、省造が通っていたと言う中学校の裏山に登った。そこには立派な忠霊塔が建っていた。省造はこの塔に登ろうと言う、裏側に廻ると狭い入り口があり、直立した梯子段があった。省造はなかなか手際よく登る。かつては彼等の秘密の遊び場だったのであろう、三郎はいくら戦争に負けたとは言え、英霊の祭られている塔に登るとは?と尻込みしていると、上からの声、恐る恐る暗闇を手探りで登ると市街に向けて小さな窓があり、そこを覗くと、空襲をうけなかったという美しい軒並が手に取るように見える。沖合には、先日焼酎を飲まされた石油会社の大きなタンク、その横に倉庫が続いている。その向こう海に突き出た飛行場らしき物が霞み、すばらしい眺めであった。
やがて華が通っていたと言う女学校の横を通り街中に下りて来た。街は戦後の混乱期とはいえ、日本人から朝鮮人へと主役が交代し、復興へと活気が見られる。オモニの色とりどりのチマチョゴリが行き交い、その中ひと際目に付くのが進駐しているソ連軍のマダム達である。上級将校が連れて来ているのであろう、高級毛皮を首に巻き、勝者たる威厳を見せつけながら、大きな胸を揺るがしながら闊歩している。しかし折角のところだが歩きながらリンゴをかじっている。省造が言う「あれを見いや、ロスケの女がリンゴを食いもって歩きよる、、、、」。なるほど「お里が知れるねえー」。
二人は西日を背に受け、あのソ連の怪しい無線の張り巡らされた建物をすり抜け家路に急ぐ。掘りきりの畝を曲がり海に出ると、地底に響くような大音響、ズドーン、ズドーンと。さて又戦争になったのかと思うと、ソ連の海軍が、日本が伏せている機雷を爆破していたのである。水兵を乗せた掃海艇が勇ましく走る、その艦上からピーピーと笛の合図と共に爆雷を海に投げ込まれていく、これが順々に爆発していく、これは面白い、思わぬショーに二人はご満足、日本の機雷に命中すると、その爆発して起こる水柱がひと際大きく、その中央に黒く濁った水柱が立ちあがる。この松濤園付近の海岸は有名な海水浴場であり戦争の時は敵前上陸にもってこいの場所でもある。日本はここに入念に機雷を敷設していたのであろう、二人はなかなか見ることの出来ないこの珍しい水芸に見入っていた。
帰りが少しおそくなったが三郎にとって今日一日楽しい休養日であった。
年の瀬が迫って来ると、ここ北朝鮮も満州のように寒さが厳しくなって来た。今日は省造と裏庭にあるアカシヤの樹を切って温突(オンドル)用の薪を作る事になった。この家には四畳ほどのオンドル部屋があり、食事時は皆この部屋に集まるのである。三郎にとってオンドルは初めてのものである。焚き口は普通の竈と変わりはなく、大きな羽釜が据わっていて、ここで火を焚くと、羽釜のお湯は沸き。その炎と煙が床下の迷路のような煙道を通り床を温める仕掛けになっている、一石二鳥、よく考えられたものである。朝鮮独特のものであろう、朝鮮人のどの家にもこのオンドルは作られているという。オンドルの部屋に座ると、足や腰の下からここちよい温もりが伝わって来る。よく考えたものである。
この家の裏側は別荘らしく、白く塗られたベランダがあり、その先に砂浜が続き遠浅の海が開けている。夏は海水浴客で随分と賑やかになると言う。この裏庭に七、八本のアカシヤの木が植えられていた。夏は涼しい木陰になるであろうに!省造は何処からかくたびれた鋸とナタを出して来た。この立派な樹を薪にするのはまことに勿体無い事であるが、どうせ夏までは住めないこの家、切る事には惜しみは無かった。二人は代わる代わる鋸を引いた。挽く毎にうぐいす色の大鋸屑(おがくず)が新しい匂いと共にリズムよく出てくる。一本二本と倒され、挽かれ、割られていく、これを三郎は腕いっぱいに抱え木小屋に運んでいると表の方にジープが止まり、四人ほどのソ連兵がつかつかと入って来た。二人は将校らしく肩章が光っている。あとの二人は従卒であろう、三郎はあわてて省造に知らせた。省造もとんで来た。しかし我が家の主、重雄小父さん、少しも慌てず、丁重に座敷に案内し、どこで手に入れたのかコーヒーやウオッカで応対。この小父さん、このロスケと知り合いなのか?三郎の心は穏やかではなかった。終戦後すぐ朝鮮側は日本の警察に代わって保安隊をつくり治安に当たっていた。日本側は日本人世話会を創り、ソ連や朝鮮側と引揚げや労働使役の交渉に当たっていた。わが主重雄は元山市日本人世話会の主たる世話人で、その会計の役も引き受けていた。従ってソ連の将校とは面識があり交際があったのであろう、賑やかに、二時間ほどを過ごし帰って行った。三郎にとっては満州でソ連軍と遭遇して以来随分とひどい目に遭わされて来たので、恨みこそあれ友好の気はさらさら無かった。しかし今日の主の応対なんたることぞ!あのロスケにあんなにぺこぺこして、三郎は怒っていた。数日後事件は起きた。 つづく
23 4 28
昨日焼酎を飲まされ、酔っぱらった事件?は何とか家の者には気付かれること無く今日が始まった。
年下の兄貴?省造が「中平今日は街へ遊びに行こう」と言う、年下の省造が、「中平」と呼捨てにするのには三郎もちょっとは頭に来るのだが、それで良い、それでいい、我は居候の身、と自分に言い聞かせる。「はい!連れて行って!」二人は連れ立って市街へと向かう。街までの道は使役に出る度に通っているので、三郎にとって珍しい道ではなかったが、今日は初めての市内見物、そして省造が生まれ育った家「桂月」と言う大きな料理屋に案内してくれた。省造は「ここが内の店だったの、、」とつかつかと中へ入って行く。そこは我が伊之助老夫婦が腕一つで築きあげた市内随一の料理屋であった。が終戦と共に、使用人の朝鮮人の手に渡ったのである。戦時中は軍関係のお客で大繁盛したと言う、三郎も入って行くと、元従業員であったと言う人が出て来た。二人を見て一瞬顔を曇らせたが、すぐ愛想よく応じてくれ、唐辛子を真っ赤に振りかけた、辛いからいうどんをご馳走してくれた。店を出て、今度は映画を見ようと言うことになった。日本人は入れないというのだが、省造は、黙っていれば分かるものか、入ったら話をしないとの約束で木戸をくぐった。場内は満員の朝鮮人、その中へ割り込んだ。映画はソ連ものを朝鮮語で上映している。何を言っているのかさっぱり分からないが、洋画を見たことも無い三郎は興味津々、二人は無言で一ときを過ごした。
その後、省造が通っていたと言う中学校の裏山に登った。そこには立派な忠霊塔が建っていた。省造はこの塔に登ろうと言う、裏側に廻ると狭い入り口があり、直立した梯子段があった。省造はなかなか手際よく登る。かつては彼等の秘密の遊び場だったのであろう、三郎はいくら戦争に負けたとは言え、英霊の祭られている塔に登るとは?と尻込みしていると、上からの声、恐る恐る暗闇を手探りで登ると市街に向けて小さな窓があり、そこを覗くと、空襲をうけなかったという美しい軒並が手に取るように見える。沖合には、先日焼酎を飲まされた石油会社の大きなタンク、その横に倉庫が続いている。その向こう海に突き出た飛行場らしき物が霞み、すばらしい眺めであった。
やがて華が通っていたと言う女学校の横を通り街中に下りて来た。街は戦後の混乱期とはいえ、日本人から朝鮮人へと主役が交代し、復興へと活気が見られる。オモニの色とりどりのチマチョゴリが行き交い、その中ひと際目に付くのが進駐しているソ連軍のマダム達である。上級将校が連れて来ているのであろう、高級毛皮を首に巻き、勝者たる威厳を見せつけながら、大きな胸を揺るがしながら闊歩している。しかし折角のところだが歩きながらリンゴをかじっている。省造が言う「あれを見いや、ロスケの女がリンゴを食いもって歩きよる、、、、」。なるほど「お里が知れるねえー」。
二人は西日を背に受け、あのソ連の怪しい無線の張り巡らされた建物をすり抜け家路に急ぐ。掘りきりの畝を曲がり海に出ると、地底に響くような大音響、ズドーン、ズドーンと。さて又戦争になったのかと思うと、ソ連の海軍が、日本が伏せている機雷を爆破していたのである。水兵を乗せた掃海艇が勇ましく走る、その艦上からピーピーと笛の合図と共に爆雷を海に投げ込まれていく、これが順々に爆発していく、これは面白い、思わぬショーに二人はご満足、日本の機雷に命中すると、その爆発して起こる水柱がひと際大きく、その中央に黒く濁った水柱が立ちあがる。この松濤園付近の海岸は有名な海水浴場であり戦争の時は敵前上陸にもってこいの場所でもある。日本はここに入念に機雷を敷設していたのであろう、二人はなかなか見ることの出来ないこの珍しい水芸に見入っていた。
帰りが少しおそくなったが三郎にとって今日一日楽しい休養日であった。
年の瀬が迫って来ると、ここ北朝鮮も満州のように寒さが厳しくなって来た。今日は省造と裏庭にあるアカシヤの樹を切って温突(オンドル)用の薪を作る事になった。この家には四畳ほどのオンドル部屋があり、食事時は皆この部屋に集まるのである。三郎にとってオンドルは初めてのものである。焚き口は普通の竈と変わりはなく、大きな羽釜が据わっていて、ここで火を焚くと、羽釜のお湯は沸き。その炎と煙が床下の迷路のような煙道を通り床を温める仕掛けになっている、一石二鳥、よく考えられたものである。朝鮮独特のものであろう、朝鮮人のどの家にもこのオンドルは作られているという。オンドルの部屋に座ると、足や腰の下からここちよい温もりが伝わって来る。よく考えたものである。
この家の裏側は別荘らしく、白く塗られたベランダがあり、その先に砂浜が続き遠浅の海が開けている。夏は海水浴客で随分と賑やかになると言う。この裏庭に七、八本のアカシヤの木が植えられていた。夏は涼しい木陰になるであろうに!省造は何処からかくたびれた鋸とナタを出して来た。この立派な樹を薪にするのはまことに勿体無い事であるが、どうせ夏までは住めないこの家、切る事には惜しみは無かった。二人は代わる代わる鋸を引いた。挽く毎にうぐいす色の大鋸屑(おがくず)が新しい匂いと共にリズムよく出てくる。一本二本と倒され、挽かれ、割られていく、これを三郎は腕いっぱいに抱え木小屋に運んでいると表の方にジープが止まり、四人ほどのソ連兵がつかつかと入って来た。二人は将校らしく肩章が光っている。あとの二人は従卒であろう、三郎はあわてて省造に知らせた。省造もとんで来た。しかし我が家の主、重雄小父さん、少しも慌てず、丁重に座敷に案内し、どこで手に入れたのかコーヒーやウオッカで応対。この小父さん、このロスケと知り合いなのか?三郎の心は穏やかではなかった。終戦後すぐ朝鮮側は日本の警察に代わって保安隊をつくり治安に当たっていた。日本側は日本人世話会を創り、ソ連や朝鮮側と引揚げや労働使役の交渉に当たっていた。わが主重雄は元山市日本人世話会の主たる世話人で、その会計の役も引き受けていた。従ってソ連の将校とは面識があり交際があったのであろう、賑やかに、二時間ほどを過ごし帰って行った。三郎にとっては満州でソ連軍と遭遇して以来随分とひどい目に遭わされて来たので、恨みこそあれ友好の気はさらさら無かった。しかし今日の主の応対なんたることぞ!あのロスケにあんなにぺこぺこして、三郎は怒っていた。数日後事件は起きた。 つづく
鞋を履いた関東軍 22
2011-4-2
居 候 (いそうろう)
やがて街はずれに差しかかる。大きなアンテナを張り廻らした建物があり、赤ら顔をしたソ連兵が銃を抱えて警戒している。何か軍事的重要な施設であろう、そこを横目に見ながら掘り切りを曲がると大きく海が開け、崖下に白い波が打ち寄せていた。
三郎は満州から、毎日毎日鉄路伝いに歩いて来た、その足に大きな靴づれが出来ていて、そこが痛む。早く何処かに預けてもらえんろうか、と思いながら足を引きずり引張り、小父さんの後に従う。この様子を見かねたのか、かの小父さんは道端の民家に立ち寄り、下駄を借りて来てくれた。知り合いの家だったのであろう。三郎は早速下駄に履き代える。この下駄の感触何年振りだろう、そして関東軍ではないが、下駄を履いた義勇軍となった。下駄履きでは戦(いくさ)は出来まい、あの関東軍の草鞋(わらじ)を思い出し、ちょっとおかしく思った。やはり下駄は下駄、カラコロと音がする。いや!そんな悠長な感慨に浸る場合か‼三郎は我にかえり、とぼとぼと主に従う。この親父、見かけは怖そうな人だが、こんなに親切な人なのだな、しかし何処まで連れて行かれるのだろう、市街はとっくに離れたのになかなか配ってくれない。
松林を抜け海岸通りに出た。そこには赤い屋根、白い壁の洋風の建物が海辺に風情よく並んでいる。そしてアカシヤの並木、その梢を見上げると、秋の雲が流れ、早や冬がそこまで来ているようだ。
しばらく歩くと、この鷲鼻の小父さん、立派な洋風の家の前に立つと「ここじゃ!入れ」と言う。入れと言われても、ここは見ず知らずの、赤の他人の家である。玄関をくぐるのが怖かった。三郎の持ち物は、満州から背負ってきた空っぽのリュックと、垢やシラミのついた毛布一枚。促されるままにそっと敷居を跨ぎ入った。食うや食わずの痩せた体がさらに縮む思い、この家は今連れて来てくれた小父さんの家であった。
目が覚めた。ここは何処だろう、北満の義勇隊訓練所を出てもう三ヶ月になろうか?疲れはてた体、その中から眼(まなこ)だけが目覚めた。天井には丸く大きな唐草模様が描かれている。まだ五体は眠っているが柔らかい布団に包まれている。ちかくで波の音が聞こえる。ここは竜宮か?天国に来たのだろうか? そうかここは昨夕連れて来てくれたあの小父さんの家だ。爪先を動かしてみる。動く、手も動く、生きているのだ。徐々に五体に気が廻り、夕べこの家に連れて来られた事、そして渡満以来の出来事が思い出される。農民の父と言われた我らが加藤寛治先生は「興安の嶺に植えばや敷島の大和心を日の暮れぬ間に」と詩ったが、もう既に日は暮れていたのだ。所詮他人の土地に、いくら理想の樹を植えてもよい実を結ぶわけが無い。三郎は命からがら何とかここまでたどりついたが。さてここからどうやって日本に帰ろう、この家に何時までも厄介になるわけにもいくまいが。
三郎にとってつらい居候の日々が始まった。ここは元山市街から少し離れた有名な景勝地、松濤園と言うそうだ。前には永興湾が開け、遥かに葛麻半島を望む別荘地である。この家の住人は、白髪が剥げあがり、入れ歯の光るご老体、その風貌は海千山千をくぐってきた御仁に見える、この人がこの家のおお大将、主である。その女将さんは口達者の、小柄な賢いお婆さん。二人は日露戦争後、多くの日本人が大陸に渡り一旗挙げると言う時勢の流れに乗り、日本を後に、ここ元山で料理屋を始めたそうだ。そしてその長男重雄夫婦と、その赤ん坊、重雄は元山市の日本人世話会の役職を務め、避難民の救済、そして地元朝鮮人や、占領軍ソ連との交渉役をしている。そして絵が上手でオシャンな二十歳くらいのお姉さん聖子。そして三郎より年下であるが体も教養もはるかに兄貴分の中学生の、次男、省造。その下、華と言う明るくて美しい女学生。その下、五歳くらいと思われる可愛くてお茶目な幸子。この大家族の中へ三郎は居候することになったのである。居候の身、根掘り葉掘り家庭の事情を聞くわけもいかず、これ以上家庭のことに触れる事は無かった。 とは言っても小さな幸子はいったい誰の子だろう、知る事はなかった。
三郎は、ただ居候していては何とも申し訳の無い事、何とかこの家に少しでも役立つ事をしなければと思う、しかし何もする事は無い、「居候三杯目にはそっと出し」の川柳があるが、とても三杯目を出す勇気は無かった。食事は三郎がかって食した事の無い海の幸山の幸を使った、居候にはもったいない料理の数々、さすが料理屋の料理である。
数日を家の周りの掃除をしたりぶらぶら過ごしていた。これが居候と言うものだ、と自分に言い聞かせていた。それにしてもこの家の人皆な暖かく接してくれる。これが余計に身にこたえる日々であった。
幸いこの頃進駐しているソ連軍や、朝鮮側から日本人に対し使役が強要されていた。日本人家庭にはそれぞれ、その出役の要請が来た。この家にもその出夫の割り当てが来た。当然ながら三郎はこの家の出役人として出ることとなった、これでこの家に役立つ仕事が出来る事となり少し荷を軽くする事ができた。使役は主に日本から奪い取ったあらゆる物品、飛行機のエンジンから、レンガに至るまで。ソ連もドイツとの戦いで国内の経済は随分と疲弊していたのであろう、こんな物までと思われる、なんでもかんでも、かっさらって行く。その日本からの戦利品、それを日本人を使って船に積ませるのである。これが負けた者の運命なのだろうか、来る日も来る日も二交代で船積みが続く、三郎は居候の身、いつも夜間の出役を申し付かる。三郎はこの盗られて行く膨大な品物の中から、何か我が居候の家で役立つ品は無いものか、この大泥棒から、その上前を頂戴しようと何時も目を光らせていた。ある日の事、大きなカマス(わらで編んだ袋)の中にローマ字でインサイドベルトとラベルの貼った真新しい真田(さなだ)紐(ひも)の巻きを見つけた。これなら弁当袋に入れておけば下船の時の検問に引っかかる事もあるまい。何かを盗って帰るのが居候にとって我が家へのご奉公であり勤めであると、我なから心に決めていた。先日は石鹸を、缶詰を、又生ゴムを腹に巻いてとって帰ったことがあるが、この生ゴムは使い物にならなかった。今日の獲物は絶対お役にたてると思って交代の刻を待った。通訳の人の笛が鳴った。何段にも仕切られた船底から、はい上がる。皆疲れはてた表情で検問を待つ、三郎は今まで捕まった事は無かったので、あえて胸を張って通ろうとしたのだが「マテ、ダバィ」ときた。列から外され、身体検査となった。ちょっと弁当袋が膨らんでいたのがロスケ(ロスケとはロシヤ兵のことを恨みと軽蔑を込めての呼称)の目に止まったのであろう。袋から真田紐を取り出し、三郎の首に巻き付けちょっと持ち上げられた。一瞬息が止まったが直ぐ降ろしてくれた。やれやれ今日は大失敗であった。先日は袋の底からビンに入った薬を見つけ、持ち帰り、満州からの靴づれに塗って大変重宝した、これは天からの与え物だと思った。
船積みが終わると、今度は、市街地より遥か遠い北の港湾まで、ソ連の大きなトラックで連れて行かれ、石炭を船に積む作業をさせられた。この作業も何日も続いた。使役に出る日は何時も弁当を作ってもらい持って行くのだが、この弁当が何よりの楽しみ、料理屋で使っていたのであろう、漆塗りの弁当箱。この立派な弁当箱を見るたび思い出すのは小学生の頃母の作ってくれた弁当である。お昼になると弁当を抱えて、学校の下の涼しい川原に降り、みんなでよく食べたものであった、戦時中のこと、弁当は麦の多く入ったものだ、箱は梅の酸と塩で腐食しかかった薄いアルミの箱であった、この弁当箱が嫌でたまらなかった事を思い出す。それに比べ今この朱塗りの箱、もったいない事よ、と思う。しかしその蓋を開けて見ると、ありゃあ?ご飯が三分の一ほど隙間がある、、、。そうか、ここは街から一時間ほど悪い道路を嫌と言うほど車にゆられて来ているのだ、そのゆれで弁当の中身が一方に押し詰められているのだ。弁当だけを楽しみの三郎をがっかりさせる。この現象?はあの親父さんの奥さんが食事当番のときにおこる。聖子姉さんの時はいくら揺られてもぎっしり詰まっている。弁当の詰め方に文句の言える身分でない、筍生活へ赤の他人が転がり込んでいるのだ、主婦としては一粒の米も節約しなければならないのだ。この事はよく分かる。何も言えることではなかった。
真っ黒になる石炭積みが数日続いたが漸く終り、今度は朝鮮人への使役となった。この日は測量の手伝いをさせられる。その昼休み、測量用の望遠鏡でソ連兵の駐屯場所を覗き見することが出来た。ソ連兵とは長いつき会いをして来たので珍しい事ではないが、この望遠鏡で覗き見するのも又趣が違う、木陰で寝そべっているやつ、歩哨に立つ者、煙草を吸っているやつ、トランプをやっている、その腕の刺青まで手に取るように見える。そのぞんざいなソ連兵の姿を笑い、我々にも覗かせる事は、朝鮮人も心ではソ連兵を蔑視しているのであろう、朝鮮は日本に対し戦勝国ではないが、日本人に対しては恨み満々で厳しい態度である。ソ連を背にすれば勝ち組なのだが、朝鮮人も日本人としてこの戦争を戦って来たので、やはり朝鮮も敗者として扱われている。従って朝鮮に有る、あらゆる物資を盗られてゆくのを指をくわえて見るより仕方が無いのであろう。今は複雑な立場の朝鮮なのだ。
測量を終えて山を降りると、石油会社だったと言われる大きな倉庫が幾つもならんでいる、その前に集められた、他の作業班の人も来た。さてまだ何かやらされるのかと思いきや、焼酎を飲めと言う、一列になり一人ひとり小さなコップに配られた、これがキツイ焼酎。使役には大人も三郎の様な少年も多く居たが、大人子供関係なし、これが使用者側、朝鮮のせめてもの配慮なのであろう、こんな強い酒飲んだ事のない三郎、ふらふらになった、居候が千鳥足では家には帰れまい、困った。
2011-4-2
居 候 (いそうろう)
やがて街はずれに差しかかる。大きなアンテナを張り廻らした建物があり、赤ら顔をしたソ連兵が銃を抱えて警戒している。何か軍事的重要な施設であろう、そこを横目に見ながら掘り切りを曲がると大きく海が開け、崖下に白い波が打ち寄せていた。
三郎は満州から、毎日毎日鉄路伝いに歩いて来た、その足に大きな靴づれが出来ていて、そこが痛む。早く何処かに預けてもらえんろうか、と思いながら足を引きずり引張り、小父さんの後に従う。この様子を見かねたのか、かの小父さんは道端の民家に立ち寄り、下駄を借りて来てくれた。知り合いの家だったのであろう。三郎は早速下駄に履き代える。この下駄の感触何年振りだろう、そして関東軍ではないが、下駄を履いた義勇軍となった。下駄履きでは戦(いくさ)は出来まい、あの関東軍の草鞋(わらじ)を思い出し、ちょっとおかしく思った。やはり下駄は下駄、カラコロと音がする。いや!そんな悠長な感慨に浸る場合か‼三郎は我にかえり、とぼとぼと主に従う。この親父、見かけは怖そうな人だが、こんなに親切な人なのだな、しかし何処まで連れて行かれるのだろう、市街はとっくに離れたのになかなか配ってくれない。
松林を抜け海岸通りに出た。そこには赤い屋根、白い壁の洋風の建物が海辺に風情よく並んでいる。そしてアカシヤの並木、その梢を見上げると、秋の雲が流れ、早や冬がそこまで来ているようだ。
しばらく歩くと、この鷲鼻の小父さん、立派な洋風の家の前に立つと「ここじゃ!入れ」と言う。入れと言われても、ここは見ず知らずの、赤の他人の家である。玄関をくぐるのが怖かった。三郎の持ち物は、満州から背負ってきた空っぽのリュックと、垢やシラミのついた毛布一枚。促されるままにそっと敷居を跨ぎ入った。食うや食わずの痩せた体がさらに縮む思い、この家は今連れて来てくれた小父さんの家であった。
目が覚めた。ここは何処だろう、北満の義勇隊訓練所を出てもう三ヶ月になろうか?疲れはてた体、その中から眼(まなこ)だけが目覚めた。天井には丸く大きな唐草模様が描かれている。まだ五体は眠っているが柔らかい布団に包まれている。ちかくで波の音が聞こえる。ここは竜宮か?天国に来たのだろうか? そうかここは昨夕連れて来てくれたあの小父さんの家だ。爪先を動かしてみる。動く、手も動く、生きているのだ。徐々に五体に気が廻り、夕べこの家に連れて来られた事、そして渡満以来の出来事が思い出される。農民の父と言われた我らが加藤寛治先生は「興安の嶺に植えばや敷島の大和心を日の暮れぬ間に」と詩ったが、もう既に日は暮れていたのだ。所詮他人の土地に、いくら理想の樹を植えてもよい実を結ぶわけが無い。三郎は命からがら何とかここまでたどりついたが。さてここからどうやって日本に帰ろう、この家に何時までも厄介になるわけにもいくまいが。
三郎にとってつらい居候の日々が始まった。ここは元山市街から少し離れた有名な景勝地、松濤園と言うそうだ。前には永興湾が開け、遥かに葛麻半島を望む別荘地である。この家の住人は、白髪が剥げあがり、入れ歯の光るご老体、その風貌は海千山千をくぐってきた御仁に見える、この人がこの家のおお大将、主である。その女将さんは口達者の、小柄な賢いお婆さん。二人は日露戦争後、多くの日本人が大陸に渡り一旗挙げると言う時勢の流れに乗り、日本を後に、ここ元山で料理屋を始めたそうだ。そしてその長男重雄夫婦と、その赤ん坊、重雄は元山市の日本人世話会の役職を務め、避難民の救済、そして地元朝鮮人や、占領軍ソ連との交渉役をしている。そして絵が上手でオシャンな二十歳くらいのお姉さん聖子。そして三郎より年下であるが体も教養もはるかに兄貴分の中学生の、次男、省造。その下、華と言う明るくて美しい女学生。その下、五歳くらいと思われる可愛くてお茶目な幸子。この大家族の中へ三郎は居候することになったのである。居候の身、根掘り葉掘り家庭の事情を聞くわけもいかず、これ以上家庭のことに触れる事は無かった。 とは言っても小さな幸子はいったい誰の子だろう、知る事はなかった。
三郎は、ただ居候していては何とも申し訳の無い事、何とかこの家に少しでも役立つ事をしなければと思う、しかし何もする事は無い、「居候三杯目にはそっと出し」の川柳があるが、とても三杯目を出す勇気は無かった。食事は三郎がかって食した事の無い海の幸山の幸を使った、居候にはもったいない料理の数々、さすが料理屋の料理である。
数日を家の周りの掃除をしたりぶらぶら過ごしていた。これが居候と言うものだ、と自分に言い聞かせていた。それにしてもこの家の人皆な暖かく接してくれる。これが余計に身にこたえる日々であった。
幸いこの頃進駐しているソ連軍や、朝鮮側から日本人に対し使役が強要されていた。日本人家庭にはそれぞれ、その出役の要請が来た。この家にもその出夫の割り当てが来た。当然ながら三郎はこの家の出役人として出ることとなった、これでこの家に役立つ仕事が出来る事となり少し荷を軽くする事ができた。使役は主に日本から奪い取ったあらゆる物品、飛行機のエンジンから、レンガに至るまで。ソ連もドイツとの戦いで国内の経済は随分と疲弊していたのであろう、こんな物までと思われる、なんでもかんでも、かっさらって行く。その日本からの戦利品、それを日本人を使って船に積ませるのである。これが負けた者の運命なのだろうか、来る日も来る日も二交代で船積みが続く、三郎は居候の身、いつも夜間の出役を申し付かる。三郎はこの盗られて行く膨大な品物の中から、何か我が居候の家で役立つ品は無いものか、この大泥棒から、その上前を頂戴しようと何時も目を光らせていた。ある日の事、大きなカマス(わらで編んだ袋)の中にローマ字でインサイドベルトとラベルの貼った真新しい真田(さなだ)紐(ひも)の巻きを見つけた。これなら弁当袋に入れておけば下船の時の検問に引っかかる事もあるまい。何かを盗って帰るのが居候にとって我が家へのご奉公であり勤めであると、我なから心に決めていた。先日は石鹸を、缶詰を、又生ゴムを腹に巻いてとって帰ったことがあるが、この生ゴムは使い物にならなかった。今日の獲物は絶対お役にたてると思って交代の刻を待った。通訳の人の笛が鳴った。何段にも仕切られた船底から、はい上がる。皆疲れはてた表情で検問を待つ、三郎は今まで捕まった事は無かったので、あえて胸を張って通ろうとしたのだが「マテ、ダバィ」ときた。列から外され、身体検査となった。ちょっと弁当袋が膨らんでいたのがロスケ(ロスケとはロシヤ兵のことを恨みと軽蔑を込めての呼称)の目に止まったのであろう。袋から真田紐を取り出し、三郎の首に巻き付けちょっと持ち上げられた。一瞬息が止まったが直ぐ降ろしてくれた。やれやれ今日は大失敗であった。先日は袋の底からビンに入った薬を見つけ、持ち帰り、満州からの靴づれに塗って大変重宝した、これは天からの与え物だと思った。
船積みが終わると、今度は、市街地より遥か遠い北の港湾まで、ソ連の大きなトラックで連れて行かれ、石炭を船に積む作業をさせられた。この作業も何日も続いた。使役に出る日は何時も弁当を作ってもらい持って行くのだが、この弁当が何よりの楽しみ、料理屋で使っていたのであろう、漆塗りの弁当箱。この立派な弁当箱を見るたび思い出すのは小学生の頃母の作ってくれた弁当である。お昼になると弁当を抱えて、学校の下の涼しい川原に降り、みんなでよく食べたものであった、戦時中のこと、弁当は麦の多く入ったものだ、箱は梅の酸と塩で腐食しかかった薄いアルミの箱であった、この弁当箱が嫌でたまらなかった事を思い出す。それに比べ今この朱塗りの箱、もったいない事よ、と思う。しかしその蓋を開けて見ると、ありゃあ?ご飯が三分の一ほど隙間がある、、、。そうか、ここは街から一時間ほど悪い道路を嫌と言うほど車にゆられて来ているのだ、そのゆれで弁当の中身が一方に押し詰められているのだ。弁当だけを楽しみの三郎をがっかりさせる。この現象?はあの親父さんの奥さんが食事当番のときにおこる。聖子姉さんの時はいくら揺られてもぎっしり詰まっている。弁当の詰め方に文句の言える身分でない、筍生活へ赤の他人が転がり込んでいるのだ、主婦としては一粒の米も節約しなければならないのだ。この事はよく分かる。何も言えることではなかった。
真っ黒になる石炭積みが数日続いたが漸く終り、今度は朝鮮人への使役となった。この日は測量の手伝いをさせられる。その昼休み、測量用の望遠鏡でソ連兵の駐屯場所を覗き見することが出来た。ソ連兵とは長いつき会いをして来たので珍しい事ではないが、この望遠鏡で覗き見するのも又趣が違う、木陰で寝そべっているやつ、歩哨に立つ者、煙草を吸っているやつ、トランプをやっている、その腕の刺青まで手に取るように見える。そのぞんざいなソ連兵の姿を笑い、我々にも覗かせる事は、朝鮮人も心ではソ連兵を蔑視しているのであろう、朝鮮は日本に対し戦勝国ではないが、日本人に対しては恨み満々で厳しい態度である。ソ連を背にすれば勝ち組なのだが、朝鮮人も日本人としてこの戦争を戦って来たので、やはり朝鮮も敗者として扱われている。従って朝鮮に有る、あらゆる物資を盗られてゆくのを指をくわえて見るより仕方が無いのであろう。今は複雑な立場の朝鮮なのだ。
測量を終えて山を降りると、石油会社だったと言われる大きな倉庫が幾つもならんでいる、その前に集められた、他の作業班の人も来た。さてまだ何かやらされるのかと思いきや、焼酎を飲めと言う、一列になり一人ひとり小さなコップに配られた、これがキツイ焼酎。使役には大人も三郎の様な少年も多く居たが、大人子供関係なし、これが使用者側、朝鮮のせめてもの配慮なのであろう、こんな強い酒飲んだ事のない三郎、ふらふらになった、居候が千鳥足では家には帰れまい、困った。
東日本大震災 心よりお見舞い申し上げます
これは国難だ一億国民一丸となってこの難局を乗り越えましょう これは第三次大戦だ‼
ブログ サブロー日記
これは国難だ一億国民一丸となってこの難局を乗り越えましょう これは第三次大戦だ‼
ブログ サブロー日記