サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

女は強し 女は怖し

2010年11月23日 | Weblog
女は強し 女は怖し
ここ数日の国会中継を見ていると、、失言又失言で何とも国会議員たるものの資質が疑われる 官房長官んなんかお詫びをしているが心から出た反省ではない その場限りの言い逃れである 国民から見てこれで 此の内閣大丈夫だろうかと思うのは私だけだろうか??
その内閣を追及する野党のつわもののかずかず その中でも女性議員の追及は鋭い いや鋭いと言うより 何の臆することも無く まったく遠慮のない言葉で?言いたい放題いいまくる?ここがおもしろいところでもあるが もっと穏やかな言い方もあるだろうにと思う 女は強し 女は怖い とつくづく感じる今日この頃であった 前々からの国会でも女の発言が心に残っている それは私だけではないだろう
私に言わせれば 学問が知恵があっても 社会の 世の中の勉強がまだまだ未熟であっての事だろう 老後になって振り返って見られるのが良かろう

 池川の安い渓谷 いま紅葉がとってもきれいそうです お出てください  サブロー

ひらまさ ショコさん有難う

2010年11月16日 | Weblog
お二人ともお元気にお暮らしご様子なによりに存じます
私のブログ見ていただき光栄に存じます 此れからも思うがまま書きます ご笑覧下さい
叔父さんには書の手本を頂いたり 俳句の指導をしていただいたりご恩があります
 一昨日はくりけいさんご夫妻と安居渓谷に紅葉を見に行っておりました とてもきれいでした 皆さん観におい出てください 二年も滝の手入れが出来ず早く全快してあれもこれもやらねばと気が焦っております   サブロー

草鞋を履いた関東軍

2010年11月13日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍   15    サブロー日記
  20010.11.13
 それは昭和20年8月12日であっただろう。突如として全員集合のラッパがスカスカと鳴った。何か不吉な予感を感じつつも本部前の広場に集合した。やがてわが広瀬中隊長が慇懃な面持ちで、「皆よく聞け、ただ今訓練所本部より明朝全員が当分間の食糧と身の回り品を持って訓練本部に集合せよとの連絡があった。その他の私物所持品は行李に納め、兵器庫の裏にある空いた幹部宿舎に入れておく事、牛馬には布団を鞍にして積めるだけの食糧を積み集合する事、勿論銃、弾、防毒面を携帯する事。」
 何が起こったのだろう?さっぱりわらないが、やっぱりソ連との戦争が始まったのだろうか、なぜここを出なければならないのか、最前線へやられるのだろうか、私達にはその実情をなにも知らされなかった。おそらく幹部も知らないのだろう、私達は言われるままにその準備を始めた。自分の行李を棚から下ろし其の中の一品一品を、持って行くもの置いて行く物を区別する。もしかするともう此処には戻れないかも知れん。誰も言わないがそんな気がする。重いから置いて行こうと一度は行李に収めた三年間の日記帳をまた引き出しリュックに詰め込む。どれもこれも自分にとっては大切な物ばかり、ふと日記帳を包んでいた古新聞に目をやると、ありゃあ此の人が戦死している。私は膝を組みなおしてこの古新聞を抱え込む。此の新聞は半年ほど前故郷の家から送って来てくれた小包を包んでいた古新聞である。『戦死者、池川町楮原 山中鯉之助〇〇等兵』と書いてある。三郎はこの鯉之助と言う名前が珍しかったのでよく覚えている。私が義勇隊に入隊する半年ほど前、狩山小学校への通学道に渡辺と言う店屋があり、此の店は製紙原料も取り扱かっていた。その店屋の前の石垣に、かみそ(製紙原料こうぞ)が数丸立て掛けてあり、その名札に山中鯉之助と書いてあった。そして間もなく此の人を出征兵士として全校生徒と民が、山中鯉之助と書いた大きな幟と、日の丸の小旗を持って見送った。 私しは此の人の名前を前もって知っていたので万歳の声も一層力をこめて送った事を昨日のように思い出したのである。その人が今この新聞に戦死として出ている。あの日の、日の丸の波、そして真っ白い楮の丸ヶ、あああの人が戦死したのか、私は戦争と言うものはどこか遠くの方の出来事のように思っていたが、知った人が戦死すると、明日には往かねばならない我が身のことが妙に戦争とか戦死とか身近にひしひしと感じられる。三郎は此の人の写真に見入っていた。「おーい中平早うせんか !」小隊長の声である。私は急いで行李を縛り上げ官舎へと運んだ。そこには隊員の行李が山と積まれていた。中にはペシャンコの行李もある。これは満人とマイマイ(物々交換、私物を持って隊を抜け出し近くの満人に行って菓子等と交換)の選手?だったのであろう、私はこれ等の行李に又帰って来るまで無事にいてくれよ、と念じつつ官舎を出た。
 せっぱ詰まったような朝があけた、、、、、、。 今朝は集合ラッパがいやに落ち着いている。牛馬には積める限りの食糧その他を積み、我われも一品でも多くの物をリュックに詰め込んだ。豚も何10頭も居たのだがこれを連れて行くことは至難のわざで、置いて行かねばならない、まことに惜しい事だ。こんな事なら早ょう食わしてくれれば良かったのに。先に中隊では豚殺事件があった。数人の隊員がひそかに豚を殺し、年上の隊員の召集を祝って送別会を行なった。これが幹部に知れて大問題になり、内地の親元まで知らされる事件があった。今はその大事な豚をどうする事も出来ない、すぐに満人に捕っていかれるであろう。やがて牛馬を先頭に私達はぎっしり詰まったリュックを背負い、水筒、防毒面、チェッコ銃。実弾50発、これが重い又防毒面、これがかさばり何とも始末が悪い。チェッコ銃は支那軍の戦利品である。日本の三八銃より良いと言われる。特に機関銃は当時技術の国であったチェッコスロバキヤ産は優秀であった。重い重いとあえぎながら訓練本部へのなだらかな稜線に登り詰める。もう足はがくがくであった。     続く、、、





草鞋を履いた関東軍の続編

2010年11月09日 | Weblog
サブロー日記 長い事体調不良のため休んでいた「草鞋を履いた関東軍」の続編を書いてみようと思います 先の見えて来た私はこれを何とか仕上げて一冊の本にしたいと考えていますが さてどうなる事や、、、、、、、、
 No14 で休んでおりました 此れまでのあらましは
昭和18年3月14歳の三郎少年は池川の富岡橋の袂で皆さんに送られ茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入隊一年間の訓練ののち現地満州国寧安義勇隊訓練所に入隊 昭和20年8月戦局愈々厳しくなって来た、、、、、多くの少年達の運命は

コメント有難う

2010年11月09日 | Weblog
くりけいさん。ショコさんコメント有難うございました  ショコさんは先にもコメントいただいたのですが 何処のどなたでしょう 是非お所お名前知りたいものです つば山に関係のある人でしょうね 三日に兄さんが椿山に行ったと書いてありますから ちょうどくりけいさんも三日に椿山に行っていますね お神楽があったのでしょうね

 くりけいさん安居渓谷紅葉がもうきれいになっていると思います お供できると思いますので連絡ください
お二人に励まされサブロー頑張ります

秋深く

2010年11月04日 | Weblog
 いつの間にか対岸の桜並木の葉っぱが一枚も無いようになっていた 木枯らしが一番も二番も吹いたからだろう 川の流れも寒々と感じるようになった やっぱり今年も川へ一日も行けなかった残念だ が今日この頃体の調子が良くなり この冬はあの滝の大きなキャンバスに立ち向かう事ができるかもしれん これも高知医大の新薬の効き目かも 先が見えて来たサブローはちょっとあせっている このブログに連載中の「草鞋を履いた関東軍」も完成しなければならない 
 さあ今日も頑張るぞ、、、、、サブロー