サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

五月28日  サブロー日記

2006年05月30日 | Weblog
5月28日

 どうやら梅雨に入ったらしい、今日も上天気ではなさそうだが。昇竜の滝周辺の見回り、今回も案の定、手前の谷より引いている2本の水道管が出水の為に砂をかぶり詰まっている。出水度に詰まる。なんとか根本的工事をせんといかん。滝は梅雨の出水で最高の景観。この壮観天下一品である。滝壷に降り、周遊の道の草刈をする。まだまだやらねばならない事が山ほどある。後10年元気で居らねばならない。今日の収穫、フキ、ウド、二番のイタドリ。新緑のすがすがしい渓谷であった。


サブロー日記つづき

2006年05月25日 | Weblog
 畝を超えると急に空が開け、五月晴れの太陽が、この小さな集落を精いっぱい照している。「ここにもまだ人が居るぞー」と。現在四戸、ここは明治の終り頃まで、富岡村の中心地であり、役場、郵便局、駐在所が在った。安居川を遥か下に、こんな所に昔の往還が有ったのか、今日はその往還、「銅の道」を尋ねているのである。多分ここには店やが有り、馬を休めた馬子達で賑っていた事であろう。
 「先生お元気ですねえ」、川崎先生は近年体の調子を崩されたと聞いていたが、お元気に奥さんと、お茶を揉んでいた。
 幸い、丁度そこに、安居郷長の山中さんが居た。此の人なら安居の事なら何でも知ってる。今は街に出ておられるが。何と今もこの故郷に通って田んぼを作っている。本百姓の人でさえ、殆んどの人は田圃を捨てているのに、まったく偉い人よ。
「たかすけさんよ、ここから川内谷まで昔の道を伝うて抜けてみたいが、行けるろうかのう、おまさんは猪を追てよう知ちるろうが」。「うぅん行ける行ける。ここを真直ぐ、別れ道を下へ下へと行きよりさえすりゃあええ」、
 「どうもおおきに、行ってみる、、、」 先生方とも別れ、心配していた道もどうやら通れそう、二人は勇気百倍、勇んで出発、今日は、くりけいさんの謂う、地下足袋を履き足をかためている。「ハマちゃん、もう道も安心じゃあけ、山菜でもとりもって行こうや」彼もうなずく。
 よい道が続く、やがて無数の墓床、聴いた事も無い苗字もある。在所からⅠキロも来た処、ここには立派な大理石で墓床を作り、その上に大きな墓碑が何基も姿勢正しく座っている。昔より入江谷には大理石が産出されていたが。それにしても立派なものである。岩盤を背に、前には往還。豪農、郷長の権威をも顕しているのであろう、川崎、山中の字が見える。
 そこを過ぎても、そこそこの道が続いていたが、川内谷の御滝様(おおたびさま)の上あたりを過ぎた頃、下へ下への教えの通り行きよると、何と道が消えた、これは狸の悪さか?一瞬ドキンとした。数年前、誰やろ先生らあが迷って大騒動がいたが、ここは高山ではない、此の下何10メートルかには必ず県道が有るはず。いざと成ったら、真下へ滑りこける。腹は据わった。それにしても、真直ぐ、真直ぐと教えてくれた人、、、。二人は山菜どころか、日暮れまでに帰れるろうか、それが心配になった。ハマちゃんも心配そうに時計を覗く。
此処もやはり長い年月に、耕作や、植林で道が判らなくなったのであろう。二人は気を取り直し、今度は上へ上へと藪を潜る。有ったあった、姿は見えねど、ハマちゃんの声、彼は元気そのもの、道が判らなくなると、猟犬のごとく探し廻る。そして遅くて再々休むサブローに嫌な顔一つしない。よく出来た人物である。
 やっと四時前に、川内谷の影集落が見える畝に出た。ここには影の墓か所である。此の中に恋塚がある。もう五十年も昔かし、俳句会の吟行で、この恋塚を訪れた事があった。此の句会で、竹の谷の片岡素琴さんの「恋塚の一日を春の句に浸る」此の句が最高点であった。どうしてか、ここまで来てサブローの足が急にツリ始めた。痛い。歩けん。道に腰を落とし、痛さをこらえながら、遥か過ぎし俳句会の思出に浸っていたのである。ハマちゃんは、もう県道の車で空腹を満たしていた。 






5月23i日  日記

2006年05月23日 | Weblog
やりました。安居銅山への道、踏破。 銅山より、川内谷の馬立(馬の駅ここから舟で仁淀川を下る)の間約15キロ、4里、文政から約200年のこの山坂の道、遂に踏破。
同行2人であるが、弘法大師ではなく、畑からハマグリの細木栄三郎先生、彼は先生と言うと嫌がるので、釣りばか日記に習ってハマちゃんと呼ばしてもらう、このハマちゃんとふたりで 4日かかった。一日目は昨年の事、昇竜の滝から五丁谷の上まで、椿山越えの所。この間、第三駐車場の上の雑木林の中に立派な六尺道を見付けたのが病みつき、これならひょっとしたら200年前の道が全線残っているかも知れない。次は銅山から下ってここ五丁まで、その次は大屋から樫山の間。次々と昔々の道が確認された。巌の上で植林も畑作も出来ない区間、雑木林の中は今でも馬が通れるような立派な道が残っている。
最後に残ったのが、安居土居から川内谷まで、ハマちゃんも嫌とは言わん、私も一人ではちょっと。5月21日日曜日、晴天。安居銅山から毎日のように馬に精銅が積まれ、馬子も背に負い、20頭くらい通って居たという、ここで疑問がうまれた。地図によると成川から土居に上がり、八幡を越えて入江谷出る。此の道しか出て無い。私は思う、いくら昔の人が力があったとは言え、成川から八幡神社まで上がるはずがない。ここには必ず中間に道があるはず。中山福茂さんに聞いてみた。あるある、内からずーと横に行きよったら谷がある。しかしその言葉の最後の方は小さかった。
 さあ!行こう!二人は植林の中に消えた。ハマちゃんやっぱり正解じゃったねえ、横道は狭いが上等、しばらくするとすぐ下に人家が見えて来た、やあ..あれが川崎先生くか?.早.や来たか。
地図をハマちゃんが調べる。どうも早すぎる。よくよく調べると、土居の一番下の家、安岡弘夫さんち、まだ土居の分である。それからまあまあの道。これでくつろいだと思いきや、なんと道が無くなって来た。あちこち探しても見付からない、水の音がするので谷の方へ下りた。迷ったら、ここから藪の中を無茶苦茶突っ切れば入江谷へ上がる道へは出るはず。
ここで急に腹が減った。まだ11時だが、食うと決まった。谷に下りてみると何と好いところ。
しかし此の道も夢だったか?。食後勇んで藪を掻き上がってみると、何とそこには以前のような道があった。福茂さんの声が下がった理由がわかった。此の谷付近の道は崩壊か何かで消えているのだ。畝を回ると其処には本当の川崎先生所のお家がすぐ下に有った。
 つづく これから川内谷までが、また大事であった。



昔し昔しの日記と今日の日記

2006年05月20日 | Weblog
           5月20日  日記
 ホームページが思うように動かなくなったので、今日からブログに切りかえて発信したいと思います よろしくお願いします

 一昨夜ホトトギスの声を聞きました、安心しました、先日はアカショウビンも鳴いたし、残るは青葉づくの、あの寂しそうなほーほーという声を聞けば、今年も池川の自然は安泰であるということです。もし聞いたらお知らせください。  

         5月15日  日記

 昨日来た薬報を見ていると、「ツキを呼ぶ魔法の言葉」という面白い見出しを見付けた。わたしもこの魔法の呪文をこれから使い、おおいにツキを呼び寄せてみたい。
此の呪文は、私が北朝鮮で居候していた時、そこのおじいさんに習った呪文(これは秘密)よりはるかにし易い。
それは、こうである。これはみんな言えているようで言えてない事。 何か嫌な事があったら、「有難う」。と呪文を唱える。これで不幸の連鎖をチョキンと断ち切る。これが宇宙を貫く法則だそうである 。そしてその不幸が転じて福となるそう……。また嬉しい事、楽しい事があったら、「有難う」口から発した言葉は宇宙に飛んで行き、そしてやがて本人に戻って来ると言うお話しです。これを読んだ人には必ずツキが来ると思うよ……。



草鞋を履いた関東軍---
昔々の日記より① サブロー記06.4.15

昭和17年( 1942)いよいよ戦局も厳しくなってきた。三郎は学校から帰ると、毎日一キロほど離れた池川の街へ新聞をとりに行くのが日課の一つであった。今日の新聞を開いてみると、スターリングラードが陥落と書いてあり。地図までのっている。早ようお父さんに知らせにゃあいかん、急いで畑に居る父の処へ、「お父さんスターリングラードが陥ちた。」と、大声で駆け寄った。父は新聞をしばし眺めていたが「こりゃあ陥ちたらの事とで、まだおちょらん。けんど陥ちるのももう時間のもんだいじゃろう、」三郎はいち早くこの朗報を父に知らせたかったのだが。
その日、肥えタゴの輪替えに来て、庭いっぱいに竹を広げている樽やさんに、その無念さを訴えたが、樽やさんは「ソ連も偉いけにねえ、なかなか--」と言う、此の樽やさんソ連びいきか、三郎はおおいに不満であった。

 今日、母は車使いの日である。「母(おかあ)ぼうはやっぱし義勇軍へ行くと決めた--」。ややあって母は「満州はめっそう冷(ひやい)くと言うぞ。清(せい)馬(ま)兄が日露戦争に行っちょつたが、それはそれは冷いくじゃあ言うて言いよった。よーう考えて決めよ」 三郎はうなづいたが心はもう決まっていた。清馬は母の兄であるが一財産を飲み潰した人であった。「わしが203高地を攻める時、弾が無いなって、石をちぎっちあ抛(ほう)り、ちぎっちやあ抛りしたものよ」。この伯父はよく家(いえ)へ来て酔うてはおもしろい話をする人であった。家から一キロほどの所に組合の水車があった。此の水車に、暗くなって行くときは何時も三郎が母のとぎ(・・)に行かされるのである。此の時ばかりは母と二人きりとなり、母を独占したような嬉しい気にもなる三郎であった。普段話せない事も、母に甘えることが出来た。煤けた提灯を提げ、大きな袋を背負った母の先に立ち水車小屋へと急ぐのである。そこは小さな谷の奥。竹藪に囲まれ、大きな水車が暗闇に白いものを吐きながら、闇を掻き分け、掻き分け回わっている。三郎はくたびれた小屋の戸を恐る恐る引き開けた。そして提灯を高々と差し上げた。
ゴトン、ゴトンと水車に回された大きな心棒に、腕木ががっちりと組み込まれ、その腕で三本の太い杵をかわるがわる、上げては落とし、落としては上げている。その横には大きな臼が、木で作られた歯車でぐるぐる回り、臼の間からは薄黒い粉をリズムよく吐き出している、母は着古した地縞の裾をいっぱいに、痩せた足をふん張り、大きな柱のような杵を抱え込み、回っている腕木より外すのである。三郎は見たことも無かったこの母の、秘められた力。唯ただ感心するばかりであった。手際よく穀物を入れ替え、明朝まで空臼をひかせないよう、紐に通した一文銭の枚数を調整し、搗き上がったものを袋に入れ、よいしょと背負う母のうなじにその老いを感じる三郎であった。
何時も疑問に思っていることに、我が家では、母を、おかあ、と呼び切りにし、父親を、お父さんと敬語を使う、親にこの訳を聴いた事は無いが、思うに昔からの、男尊女卑の慣わしであったのだろう。
昭和17年も押し迫った12月28日町役場に義勇軍の願書を出す。
明けて18年、戦局益々厳しくなり、農家の白い土蔵倉は敵機の目標となると言う事で、コールタで黒く偽装され、防空演習も再々行われるようになった。出征兵士の見送り。英霊の迎え。勤労奉仕。学校での炭焼き。生徒も落ち着いての授業も受けられない戦時下であった。
 いよいよ三郎も入隊の日となった。18年3月1日は狩山国民学校高等科二年の卒業式を待たず、一人で全校生徒の送別の演芸会をしてもらい。夜は氏宮で、の皆さんに武運長久のご祈念をして貰い。翌3月2日、奇しくも三郎の14歳の誕生日である。「おかあは見送りに出んけ-よおう体に気をつけての-」 三郎は門口の母を振り返りながら富岡橋の袂、普段出征兵士を送る場所へと急いだ。そこにはもう生徒や近所の人達が見送りに来ていてくれている。三郎は兄より習ったお礼の挨拶もそこそこに出来、なつかしの故郷を、思い出の山川を後にした。  つづく


 昔々の日記より 06.5.15
昭和18年3月6日 茨城県東茨城郡下中妻村内原 満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所。高知第33中隊第3小隊の一員となる。ここの訓練所の親父は、日本の農民の父と言われる。加藤完治(昭和42.3.30.死亡)である。逸話がある。畑に下肥をやるべく生徒が肥樽(タゴ)を担いで来ると、この所長、人差し指をおもむろに肥の中に入れ、これを我が舌で舐め肥の熟度を確かめたと言うお話し。 
 この訓練所より何万人もの青少年を大陸に送り、其の中多くの帰らぬ人を出したのであるが。しかし加藤完治の人徳と、その教訓を今に敬慕する人の多いことは、いかに偉大なる指導者であったかがうかがわれる。 
 ここで日本の大陸移民、いや大陸侵略がなぜ行われたか遠因を考えてみたい。
 わが旧池川町の古文書の中、次のような書類がある。
 大正18年5月17日
高知県公報第176号、通牒、第13号          高知県内務部長
各市町村長殿
 東洋拓殖株式会社に於いて左記要項により第10回朝鮮移民募集の趣に候条
 貴管下一般に周知方可然御取計相成度。
 と言う事はこれより先に9回も募集していた事で、大正時代は朝鮮移民を奨励していたようである。
 昭和12年3月2日
市町村会議に於ける指示事項、      高知県知事訓示要旨、
 満州農業移民に関する件
政府は20ケ年100万戸送出の計画をもって 満州農業移民に関する国策を樹立し 県に於いても近く之が具体的計画を樹てんとす 各位はその内容を充分研究し管内の情況に応じ移民奨励につき特に配意ありたし。
 県広報では、之が始めての満州移民に関するものであった 満州大陸への侵略はここから国策として始まった。
これには関東軍が大いにかかわっていた。当時関東軍の中枢、東宮鉄男大佐(当時大尉)、
東宮は張作霖を爆死させた指揮官でもあった。同じく石原莞爾参謀。これに加藤完治。東大農学部の那須博士。これらの人々は、関東軍の兵力不足を義勇軍をもって補うことを考えた。東宮大佐は東北の寒村生まれ、日本の農村の窮状、5反百姓の二三男対策、世界恐慌等、いわゆる昭和維新である。世界一の関東軍といえども、あの広大な大陸に兵を張り付けてみても、点と線を守るのがやっとである。北のソ連の脅威、国際連合の圧力。此の中で、満州移民をいかに正当化するかが問題である。とにかく五族(日本.満州族。漢族.朝鮮族.蒙古族)協和の旗を掲げ、満州を独立国とし、なんとか世界の批判をかわしつつ、殖民を強行する考えに至った。
此の国策のもとに、満蒙開拓義勇軍は、昭和12年7月、関東軍参謀本部第三課によって、その創設要項が提案された。
 「純真なる日本内地農村青少年の現地訓練により、真の建国農民たるに必要なる精神を鍛錬陶冶するとともに、満州開拓を促進し、以って満州建国の理想実現を期す。」
 この方針に基づき差し当たり、昭和13年度より3万人の訓練をすべく、茨城県内原に訓練所を設けることとなった。 
 この募集要項に、「わが日本青少年を大陸新天地に進出せしめ、満州の沃野を心身練磨の大道場とし、日満を貫く雄大なる皇国精神を陶冶し満蒙開拓の中堅たらしめ、以って両帝国の国策遂行に貢献せしめんとす。」
 このように、敷かれたレールに乗って三郎も入隊したのである。この内原訓練所は。
武蔵野の面影の残る平野の真只中、40ヘクタールの土地に、日輪兵舎と呼ばれる円形の建物がおよそ300棟松林の中に整然と建ち、その中央に弥栄広場と言う、練兵場があり、その正面に城郭型に建てられた警備司令部。その奥に訓練本部、通信部、中央食堂、その他があり、特に松林より一際高く望楼が聳えている。これは訓練所全体を監視する展望哨である。ここの歩哨勤務を三郎もやらされた。此の他に6箇所の歩哨があるが、時々週番司令の巡察がある。この怖い司令が来たら不動の姿勢をとり、捧げ銃をして、情況の報告。そして、その哨則を暗誦させられる。「此の歩哨は義勇軍、展望哨、特に注意すべきは付近の建物・・・・・・」この長い哨則、これが出来ねばビンタが飛ぶ。三郎が展望哨に立っていると、下の方より巡察の足音がコツ、コツ、コツと上がって来る。来た来た、三郎の足は震えている。しかし如何した事かすぐ下の階まで来て、此の足音ピタリと止まり、ややあって、その音は下の方へ遠ざかって行った。やれやれ、眼下には何処までも続く松林と日輪兵舎に、真っ赤な太陽が今や沈まんとしていた。
 
 訓練は大陸に渡り、自衛自活の基礎訓練である。もちろん土賊、馬賊、ソ連に対する軍事訓練、自活する農事訓練。特に各中隊より何名かの特技訓練がなされた。此の内希望の大きかったのが、ラッパ鼓隊であった。これに入ると珍しいパン食の弁当が貰え、きつい教練や農事作業をしなくてもよく、朝から晩までパカパカやっておればよいのだ。教科は富山の陸軍音楽学校の指導をうけていた。特技で特に重要なのは農産加工。味噌醤油、鍛冶、蹄鉄、縫工、木工、製パン、畜産、三郎も一時畜産部で研修をうけた。乳牛を見たことも無い、牛乳を飲んだ事も無い田舎ものが、乳を搾り、バターを作り、生クリームを作った。三郎にとって夢のまた夢であった。搾った乳をバケツにいれ、これを子牛に飲ますのが一番の楽しみ。

入隊すると、先ず義勇隊手牒が配られる。中を覗いてみよう。
 先ず 綱領
1、 我等義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追進シ身ヲ満州建国ノ     聖業ニ捧ゲ 身命ニ誓テ天皇陛下ノ大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス
2、 我等義勇軍ハ 身ヲ以テ一徳一心 民族協和ノ理想ヲ実践シ 道義世界     ノ礎石タランコトヲ期ス

次に 心得 
1、   古の武士に負けるな
2、   生命を尊び死を恐れるな
3、   仲良くせよ
4、   常に工夫せよ
5、   民族を敬せよ
6、   楽は人に譲り苦は己に引き受けよ
7、   規律を重んじ命令に服せ
8、   歩哨は任務を厳重に守れ
9、   武器は大切にし 手入れを怠るな
10、 農具は武器と心得よ
11、 部屋はよく整頓せよ
12、 灯火は外に漏らすな
13、 火を用心せよ
14、 水を粗末にするな
15、 独り外出するな
16、 堂々と歩け
17、 口を堅く結べ
18、 雑談を止めよ
19、 愚痴を言うな
20、 元気一杯で働け
21、 丈夫な時は体を鍛錬せよ
22、 病気の時は医者の言うことを守れ
23、 生水を飲むな
24、 毎週夜具を干せ
   その他、御神勅、 五箇条の御誓文、 軍人に賜る勅語、 明治天皇御製、 教育勅語、 君が代、 満州国歌、 その他軍歌、 詩吟等が記載されていた。
 此の様な環境の中、三郎の義勇軍生活が始まった。  来月へつづく