サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍         25

2011年06月12日 | Weblog
                      草鞋を履いた関東軍       25
23-6-12

 寒い北朝鮮の冬も節分を過ぎると少しは暖かい日もあり、内地への脱出、帰国の報が日々伝えられるようになった。しかし伊之助には、この帰国にはすぐには応じられない大きな悩みがあった。それは、あの彼女親子三人をどのようにして帰国させるか、であった。これが大問題である。あれからもう六年にもなる。子供も二人生れ楽しい日々であったのだが、予期せず日本が戦争に負けてしまった。困ったことになった。この親子三人を女房や家族に知られないよう日本に帰国させるにはどのようにすべきか、伊之助は悩んだ。そして一案を考えた。 
ある夜家族を集め、「この大勢が帰国しても路頭に迷う事は明らかだ」「わしが一足先に帰って皆の落ち着く先を構えるから皆は頃合いを見て帰って来い」「とにかくわしが先に帰って皆の落ち着き場所を構える。」と我が案を必死に説明した、しかし、皆は爺さん一人帰すことは危険であり、とても心配だ、皆が一緒に帰るべきだ。爺さんの魂胆を誰も知らないので話はなかなかまとまらない、爺さん一人を帰す訳にはいかない、と反対の声が強かったが、爺さんの強い説得に一同しかたなく納得せざるを得なかった。
伊之助の覚悟は決まった。ある夜ひそかに朝鮮人の船を雇い脱出をこころみた。夕闇せまる約束の砂浜は、遥か馬息嶺から吹きおろす風が冷たい。雇っていた漁師の船と彼女親子を待った。予定通り薄闇の先に防空頭巾を被った親子三人、大きな荷物を背に息を弾ませながらやって来た。大きい方の児が「お父ちゃん」と爺さんに駆け寄った。伊之助は児の頭をさすりながら闇の海を睨みつつ、「船が来ん、船が来ん」とつぶやきながら、波打ち際に進み掌で灯台の光をさえぎりながらじっと沖を見つめていた。しかしいくら待っても漁師の船は現れなかった。折角のこの秘策もこの永興湾の泡となって消えてしまった。この名案大失敗、朝鮮の漁師にいっぱい食わされたのである。爺さん、更に次の案を考えた。こうなったら彼女の事、家族に打ち明け、皆と一緒に脱出する他はないと覚悟を決め、そしてよいことを考えた。居候の中平にそれとなく彼女の居る事を知らせれば、中平が女房や家族につげ口をするであろう、そうすれば一波乱あっても、自分から白状する事も無く、成り行きに任せ、なんとかこの場を乗り切れるではないか。そうして皆と一緒に連れだって内地に帰ろう、爺さんは心を決めた。
 処がである。当の三郎、いままで何回か爺さんのお供をして彼女の家に行った、そして最近はその家の中にまで入れてくれる事がある。少年ながらも、これがいわゆる世間の言う「おめかけさん」と言うものだなと、遅まきながらも解って来た。「ははあーこの親父うまい事やってる。」奥さんに言ってやらねばと思った。しかし三郎は考えた、これを告げ口したらどうなる。一家はおおもめ、大喧嘩になるであろう、三郎を引き取って養ってくれている主はこの爺さんではないか、自分を信用してあの秘密の家にも何回か連れて行っている。ここで告げ口なんかはとても出来ない、三郎の忠誠心が働いた。絶対此の事は家族の者には言われん。もし告げ口して大騒動になれば我が居候の身も危ない。奥さんや他の家族の人にはまことに申し訳ないが、この秘密、この胸に閉まっておこう。三郎の気の重い日が続いた。一方爺さん中平に期待していたのだが一向にその気配がない。さりとて告げ口せよとも言えない。悶々の日が続く。もうこうなったら爺さん一波乱あるを覚悟。全部の事を皆に白状しょう、と計画を練り直した。今度は山越しで脱出を、それには信用できる案内人が必要。当時気の利いた朝鮮人は金稼ぎのため、脱国者を先導し、保安官をも取り込み三十八度線への脱出のルートを作り上げ、荒稼ぎの商売を始めていた。その人たちに頼めば無事三十八度線を潜りぬける事が出来るようである。それには相当の金が要るらしい、そしてある程度の仲間が居ないと追剥ぎにやられると言う。そこで爺さん、昔からの友人、知人を集め、二十人ほどの仲間も出来、脱出の段取り、日時も決った。
愈々切羽詰った爺さん、或る夜家族を集め、彼女の事、二人の子がいる事、先達て此の者を連れて秘かに脱出を試みた事、一切の事を家族の前に曝け出した。気が強く頑固な爺さん、自分自身から頭を下げ白状しなければならなかった事は。まことに辛い事ではあったが、もうこうなったら仕方のない事。
それから数日後愈々脱出の日がやって来た。総勢二十数名、街はずれの松林に集合、まだ夜の明けない薄暗い中、もう十数人来ている。その中に彼の親子三人の姿も見えた。三郎は以前より今日のこの事態が来ることを予想し、どんな場面が生じる事かと気をもんでいた。婆さん梅の顔を見るのも気が引けた。三郎は彼女の存在が家族に知れたあと、梅に彼女のことを問い糺された事があったが、あれこれとの細かな尋問はなかった。それだけに今の梅の心の葛藤を想像し、いたわしく三郎は出来るだけその場を離れ何知らぬ顔で見守った。仕方の無い事とはいえ、居候の身でありながら、この暖かい家族の中、爺さんのこの秘密を家族に隠して来たことは、この家族を裏切った事にもなり、まことに申し訳なく、三郎の心は重い。爺さんと同罪の気持である。
ややあって爺さんに促されたのであろう、近づいて来る彼の親子、沈黙の一刻、家族の凝視の中、彼女は無造作に防空頭巾を背に落し、頭を垂れたまま梅の前に進み深々と頭を下げた。なにか小さな声を発したが言葉にはならなかった。他人の三郎が見るべき場ではなかったが、ついつい好奇心の目はこれを見逃さなかった。梅の腹は据わっていた。さすが何十人もの従業人を使い、大きな料理屋の女将、ややあって笑顔になり会釈した、それだけで何も言うことはなかった。そして何事も無かったように近くに居た幸の手を引いて家族の輪に入った。三郎が心配するほどの事も無くあっさりと幕はおりた。
 夜明け前、この脱出集団は街を抜け山に入り、小さな山を二つほど越え、一夜を朝鮮人の納屋に泊めてもらった。明ければ、山また山を難渋しながら潜り抜け、やっと三十八線と言う橋の近くまで来た。案内人がこの橋の近くで追剥ぎがよく出るから注意するようにとの事。此処までやっと辿り着いた一向、何十年もこの外地に来て働いて、働いて貯めた総財産、今は背なのリュックと手荷物だけ、これを盗られては一大事、皆は確と握り締める。三郎のリュックもいっぱい、しかし自分の物ではなかった。でも獲られたら大変だ。三郎に自分の荷物が有る筈がないが、家を出てから三年、義勇隊生活、終戦、ソ連軍との遭遇、捕虜、逃避行、そして居候生活。物的な財産、金銭は何一つ無いが、この苦労の体験こそ何ものにも代え難い自分の大きな財産、宝物である。これを忘れず自分のものとして日本に持ちかえらなければならない。
緊張と無言の時間が続いていたが橋が近づくと誰とも無く小走りに走り出した。幅五十メートルほどの川に崩れかけた橋が架かっている。この橋を無事渡れば、あの恐ろしいソ連兵からの脱出、そして自由の世界が待っている。皆最後の力を振り絞り走った。年寄りも子供も走った。橋は大きく揺れ、その揺れが疲れきった体に伝わってくる。華も幸も走った。なかでも主人重雄の奥さん、赤ん坊を連れての脱出、皆で助け合いながらどうやら無事全員渡河に成功、それにしても主人の重雄、「わしは日本人全員を無事この元山から日本に帰すまでは帰らん、ここに残って世話をする」この人も爺さんの息子、親に似て頑固、まことに他人(ひと)の真似の出来ない勇気ある行為、全く頭の下がる思い。この人達のお陰でどれほどの日本人が、難民が助けられた事か、感謝の気持ちは尽きない。
 一行一安心しながらも脚を早め一キロくらい歩いたであろうか、そこには南側の入国を受け入れる検問所があり、アメリカ兵、そして日本人も居た。その人達により、段取りよく色々の手続きが行われた。検疫では頭から足の先まで白い粉剤を吹き付けられ、予防注射もされ、連合国司令官の大きなスタンプが印された通行許可証を貰った。
 三郎はそれから数日後、昭和二十一年四月ニ十六日夕刻、わが故郷を望む丘に立っていた。「国破れ山河あり」杜甫の詩の如く青い山々、そして清き流れの音を聞きながら、暖かい我が家に浸ることが出来た。       完