サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

草鞋を履いた関東軍  11  サブロー日記

2007年03月27日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍  11  
 その車は、だんだん近付き、衛門もノンストップ。本部前に横付けされた。一同固唾をのんで見守る中、小太りの将官と思しき人が降り立つ、吾が栗田所長、おもむろに近付き、挙手の敬礼。そして固い握手。おかしい、吾が所長は陸軍少将である。その人が先に敬礼し、丁重に迎えるとは?只者ではない。一同何事かと、ちょっとしたざわめきが起こった。
 幹部よりは何の説明も指示も無い。ただ、「キォツケ―!」の号令がかかっただけ。別に整列も、閲兵もなく。一同の注視のなか、赤鞘の軍刀を逆手に持ち、のっしのっし、わが栗田所長は背が高くスリムなのに比べ、この将軍、背が低く日焼けした赤ら顔で、でっぷり肥えている。年の頃なら60か?、栗田所長と同期くらい。われわれに笑顔で会釈しながら、二人は所長官舎へと消えていった。しばし唖然としたわれわれも、また競技が始まった。しかし、何者かと言う疑問が続く、ややあって、あれはマレーの虎、山下泰文(ともゆき)という事が分かった。

 ここで山下将軍を少し紹介しておかねばならない。将軍は、わが高知県旧大杉村の生れ、陸大卒業後、スイス、ドイツに留学、陸軍省軍事課長等々歴任、二.二六事件では皇道派、昭和14年大阪第4師団長。太平洋戦争では第25軍司令官としてマレー作戦を指揮、シンガポールを攻略、昭和17年2月。イギリス軍司令官パーシバル中将にイエスかノーかで迫りシンガポールは陥落したのである。
 この時は日本国中歓声でわきあがった。三郎も記憶に新しい。其の時の事を、吾が父、芳貞の日記に見ると。「昭和17年2月15日、朝さ雪、午後晴。旧正月元日。本日は正月の酒、三合なり。梅吉さん方、虎雄さん方に馳走になる。随分酔うた。今日午後7時50分、シンガポール陥落す」と書いてあり、翌日には、「シンガポール陥落をに伝え、午後2時より氏宮で祝賀会をする」と記している。

 その将軍が、今まさに目の前を通り、所長官舎へ入った。二人はどんな話をしているだろうか?。将軍は東条総理と馬が合わず、凱旋将軍としては扱われず、覆面将軍として、ここ満州に左遷され、牡丹江に、第一方面軍司令官として覆面で来ているのだと言う。栗田所長も二.二六事件に関係し、ここに流されたのだとの噂。 そんな関係もあってか、今日尋ねて来て、昔を、今を、明日を語り合っているのであろう。
 三郎の、空想は限りなく広がる。マレー半島を席巻した将軍は、戦利品として莫大な財宝を手に入れたとの噂。それを南方作戦の資金として、フィリッピンに隠し、残りを満州に持ち込み。ソ連戦に備えたのではあるまいか。
「栗田君、ソ連とやるようになったら、あんたは、貴方の義勇隊を引き連れ、すぐそこの鏡泊湖へ退き、あそこで持久戦をやりたまへ。僕が南方から持って来た軍資金を、通化と、そこの、鏡泊湖の湖底に、そして長白山の○○高地へ、何十年でも戦えるものを隠してあるからなー、僕はもう直ぐ、又南方へやられそうだ。君にその隠し処を知っておいて貰おう。」「僕の第一軍も、そして他の三軍、五軍もその殆んどを南方と、本土決戦に備え九州と四国へ送ったからなあー、もう国境は独立守備隊だけだからそのつもりで」。「四国高知へは、第11師団(錦)-虎林の高知44連隊も既に派遣された」。
 「そしてお願いだが近々、君ところの義勇隊員から優秀な者をハルピンの特務機関へ入ってもらう事になったから、其の時はよろしく頼む---。」(特務機関とは謀略、諜報、を任務とするスパイである)
 二人の話は尽きない事であろう、と三郎は想像した。

 競技のプログラムも、終わろうとする時。「キオッケ!」の号令がかかった。3時間余りたったであろう、二人は来た時と同じ様に全員注目の中を車へ---。やっぱり覆面だから、われわれに閲兵も、敬礼もさせずに帰るのだな。護衛は下士官ただ一人である。
 その夜三郎は、故郷へ今日の大会で、二等になった事を、細々と、誇らしげに書き送った。山下将軍の事は、手紙の検閲が厳しいので書かなかった。 

 寒い満州の冬も、もう其処までやって来た。春に備えて温床を作らなければならない。第一兵舎と兵器庫の間に作ることとなった。
 わずか3平方メートルくらいのもの2つ作るのであるが、これが大変、地下1メートルほどはカチンカチンに凍っている。水の氷ならカチンとやれば、ヒビが入り、案外割れやすいのだが、土が凍っているのは始末が悪い。鶴嘴を力任せに振り下ろしても、一回に握り拳ほどしか欠ゲ取れない、大勢かかってやっと穴を掘ることが出来た。この温床当番を三郎がやる事になった。この温床での育苗の成否が、中隊の年中の、野菜確保が出来るか否かにかかっている。責任重大である。三郎は小学生の頃より、よく家でこの温床の手伝いをさせられた。落ち葉を入れては水をかけ、踏みつける。また落ち葉を入れるこれを繰り返す。この水加減が難しい。これで2日もすると、熱が発生する。これが不思議で、子供の頃から関心があった。父は温床を幾つも作り、食糧増産のため、農会の指導のもと、サツマイモの苗を作り、町内の農家に配給していた。その経験を生かし、この当番に精を出すことが出来た。この零下何十度の中でも発酵が起こり温床は成功した。色々の種蒔き準備をし春に備える。
 なかなか春がやって来ない。ある日の事、朋友(ぽんゆう)中岡が屋根から落ち腕を折った。彼をハルピンの中央病院に連れて行く介護の役を仰せ付かった。訓練本部にも病院はあるのだが、骨折となると中央病院に連れて行かねばならない。ここに来てから所外に出るのは初めてであり、ましてや、この広い満州、西も東も分からない。幸い病院から看護婦長さんが付き添ってくれる。何にもかも、この看護婦さんがやってくれた。三郎は、ぽん友の事よりも、この初めての満州旅行、ハルピンに好奇心が沸いた。
 訓練所よりトラック、東京城駅から漸く乗り込んだ汽車。満鉄である。満州は満鉄か、関東軍かと言われる程の、満州の屋台骨である。入所の時は隊員ばかりの車両であったが、今日は違う。車内は五族の臭気が入り混じった何とも言えない空気。満、漢、蒙、朝、日の語族協和の美名を詰め込んだ満員の列車だった。つづく
 

晩酌の後  サブロー日記

2007年03月25日 | Weblog
 やはり晩酌の力? でのコメント。
 先日銅山への道、下調べの帰り、吾が車に四人乗ってあの凸凹の林道を第三駐車場まで帰り、そこで、ご苦労さんで別れた。 ところが吾が車、どうしてかオイルの赤ランプ点いたり、消えたり。おかしい、こんなこと初めて。
 あくる朝車庫に行って見ると、何と床にオイルべったり。これは吾が手にあわんと甫木元さんに電話。「エンジンのオイルタンクに穴が開いている」との事。代わりの車。四輪駆動。中古だが私のほしかった車、これで雨ガ森にも登れる。鮎とりに川原にも降りれる。災い転じてオールドパワー全開。

銅の道 五丁谷の上の道をボランティアで.......

2007年03月22日 | Weblog
 20日、五丁谷の、銅の道崩壊場所の確認に、県の刈谷さん同伴で、三好.細木.中平で行く、崩壊場所は,約30mくらい。ここにしっかりした道を造れば、銅山から、川内谷までの、銅の道、全行程が永久?に確保される。この場所は、刈谷さんの地図で、どうも民地であるとの事、早速帰りて、地主の吉岡さんに伺うと、内のじゃあー、との事、また自由に道を造る事の許可も頂いた。ボランティアの方々のご協力を頂いて是非完成したい。
 写真の様にそれから奥の道に台風での倒木が100本程あるのでそれも伐りたいが?

サブロー日記   晩酌のあと はらが立つ

2007年03月13日 | Weblog
 真っこと、、、、今日高知竜馬空港の事故。随分前から、毎日のようにトラブルが起きていた。今に大きな事故が起きるぞ、、と思っていた。案の定、起きた。今日は死者がなかったが、当然起こるべくして起こったと思う。あれほど再々起きるトラブル、その飛行機を、どうして黙認して運行さしていたのか、これは県、県議会、国会議員の信を問われる問題だ。 もっと確りして貰いたい。サブロー

草鞋を履いた関東軍  サブロー日記  10

2007年03月13日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍  10
   草鞋を履いた関東軍 10   サブロー日記

 私達の入る兵舎は、三方を湿地に囲まれ一方は小白山山脈(張広才嶺山)に連なる広漠たる大地てある。
内原で精神訓話に習った。天照大神が、高天原(たかまがはら)へ、天降りしたとき。「ここは朝日の直(ただ)さす国、夕陽の日照る国なり、故(かれ)ここぞいとよき処」と宣(のた)まわれたと言う。私達は今此処、大満州の草原に、いとよき処として、少年の神々が天下(あまくだり)したのである。

 加藤莞爾は「この土地は神様が世界人類に与え給うた共通の資産である。その資産が荒蕪地として放置されている。この広大な満州に、人口過剰、耕作地の狭隘な日本の農村の子弟を送り込み、開拓させ、世界人類に寄与するのが、大御心にそい奉る、なによりの聖業なのである。」と言う。
兵舎周辺は、よく見ると何年か前まで耕作されていたと思われる。畝の跡や、墓が歴然と残っている。此の土地も、かっては中国人の畑であったのではなかろうか。それを日本が。関東軍が、満拓公社が。銃剣をちらつかせ、半強制的に安い代価で買取り、この訓練所を建てたのであろう。
しかし私達はそんな事まで思考する知識も教養も持ってはいなかった。ただただ、身を満州建国の聖業に捧げ!、の一心でやって来たのである。
兵舎はもう九分通り出来上っていた。まだ講堂の大きな建物は建設中で、何処から来るのか中国人の大工、左官が4.5人来て働いていた。三郎は、中国人をこんなに近くで見るのは初めてである。脚の先から頭のてっぺん迄、まじまじと見つめる。日本人と変わったところは何も無い。が、服装は違う、黒く垢まみれの綿入れの様な、そうで無いような、いわゆる支那服なのであろう。私達の好奇心が益々働いて、片言の満語で話しかける。しかし、とても通じるようなものではなかった。
私達の中隊は北西2キロに中国人、和尚屯が在り。東に3キロ訓練本部。南に5キロ沙蘭鎮。北に4キロ、ここには建国10年も経っていると言うのに、うっかり日本人は行かれん、恐ろしい中国人があった。
兵舎は、幅6メートルくらい、長さ20メートルくらいの煉瓦造りが5棟、幹部宿舎2棟、倉庫1棟、ここは兵器庫と、農具庫となっている。そして今建築中のものは、大きな講堂、炊事場、中隊本部合同の建物であった。兵舎は、中央に2メートルほどの土間が貫き、その両側に一段高く床がある。此処に寝起きし、窓際には机の代わりに通しの板が設えてある。窓は二重の防寒。入り口の両側は風呂とトイレが有り。入り口に立てば舎内全体がほぼ見渡せ、小隊の統率がし易いようになっている。軍隊と違うのは、銃は、いつもは兵器庫に入れられていて、隊舎には置かれてない。
 此処に来て一番先の仕事はペチカに焚くヤンソウ(枯れ草)刈りであった。ヤンソウは、潅木と違って直ぐに燃えてしまい、大量に取って来なければならず、折角のペチカも充分の機能をしない。零下何十度と言う時は、皆、服を着たまま寝るのである。そのような時は、ねずみも寒いのか、人の布団に潜り込んで来る。よくねずみに咬まれることがあった。この大地の果てまで、ねずみが居るとは。そしてまた、この新築の兵舎に入った時、沢山のノミが飛び付いて来た。これには驚かされた。地球は人間の物だけでは無いことがよく解った。一番大事な水は、炊事場の近くに井戸が掘ってあり、これが見たことも無い、巻き上げ式になっている。柳を編んで作ったザルを落とし込み巻き上げるのである。ザルで水を汲む、のたとえがあるが、此処では喩え話ではない。何か理屈があるのだろう。しかし、やったもの、水はたいして漏れる事もなく釣瓶の役を果たしていた。井戸の口は氷で穴が狭くなり水汲みも一苦労、舎内当番は此処から風呂の水を汲まなければならないのである。
 満州の冬は何もかも凍り果てる。声まで凍って春先にはあちこちで人の声が解け出し賑やかになるそうな!?、一日の事、ヤンソウ刈りに1キロほど離れた小川まで来た。訓練本部への道筋でもあった。小川は底まで凍り、その中央に氷が大きく割れ目を開けていた。これは面白い、川底に魚が冷凍になっておるかも?。 三郎の好奇心は恐る恐るも、この氷の割れ目に入ってみた。わが背丈より深い、冷凍になった魚を探し回ったが見付けることが出来なかった。さて魚はどうなっているのだろう、今でもがてんがいかない?。
此処に来て一番つらいのは寒さである。風呂に入って、タオルを外の窓際に掛けると、瞬時にして、もうカチンカチンに凍る。後で干し直すことも出来ない速さで凍る。またトイレが大変。新築なので、暫くは何の事もなかったが、下から筍のように、上へ上へと伸びてくる。当番が鶴嘴で叩き壊すのであるが、油断すると床より上に上がって来る。また辛いのが歩哨に立つ事である。うっかり銃口に唇でも触れると、焼肉のようになって肉が剥ぎ取られる。防寒靴を履いていても一時もじっと立っては居られない。いつも足踏みして居なければならない。そして寒いだけではなく、夜になると狼が出て来る。隊の畜舎に入り、牛の仔や豚をさらって行く。豚は尻をがぶりと咬み取られたまま、元気に走り回っていた。この狼の番をするのも歩哨の大きな役目であった。一度これを退治すべく実弾を込め、数人で張り込みをしたが姿を現さなかった。 
冬は農事訓練は出来ない。軍事教練である。特に3月10日陸軍記念日はもうすぐだ、当日は訓練本部で、全中隊が集まっての競技大会がある。其の為にも厳しい訓練が続く。三郎も銃剣術の先鋒として、また武装競技の選手として出なければならなくなった。
 銃剣術は桑江教練幹部に鍛えられた。防具を着けての訓練は、今迄初めての事である。今までは木銃をもって、前々、後々、前々突け!の、型ばかりの訓練であったが、今度は防具を着け本当に相手の胸に突っ込まねばならない。しかも先鋒、一番先にやらねばならない、桑江幹部が「中平!もう時間がない、色々教えても間に合わん、「試合初め!」の号令と同時に、目をつぶってでも相手の心臓へ突っ込め、お前にはこれしかない。」と言われた。先鋒に出よと言ったのは中隊長であった。この中さん(中隊長)、この三郎をピリケンと呼ぶ、ちょっと鍛えてやろうとの魂胆か?。三郎の心配は今度の試合の事ばかりではなかった。愈々ソ連との戦争になり、白兵戦となったら、どうしょう、とてもこの細い腕では相手を斃せるはずがない、突撃の時は暴発を防ぐ為、銃に安全装置を掛けて突っ込む事になっているが、自分は絶対実弾込め、突込むと同時に発射してやろう。これしかない、と日頃から本気になって心配し、考えているのであった。
いよいよ3月10日本部には全中隊よりおよそ2.000名の隊員が集まり、また近隣の中国人の人々も集まり観戦していた。三郎はこの以外な光景を目の当たりにし、やはり五族協和が実践されているのだと感心した。
 愈々試合が始まった。幾つかの競技が進み、いよいよ銃剣術。先鋒だから当然一番先にやらねばならない。そもそも三郎のような、痩せが試合に出るのが間違っているのだが、中さんの命令である。恐る恐る立ち会うと、相手も大男ではなく一安心、さあ!始まった。桑江先生に教えられた通り、旗が降りると同時に相手の胸を狙っておいて、目を瞑りエィとつっ込んだ。確かな手ごたえがあった。だが旗が挙がらん。もう一回突いた。又確かに入った手応え。これで勝ったと思った。だが、何と旗は相手に挙がっていた。
審判員曰く。「広瀬中隊の方の声が細い」。残念、三郎はこれを習っていなかった。「突けなくても、大声をあげよと! 」と。
そして試合は進み、最後の主将同士の試合となり、吾が隊の主将、筒井小隊長の勝ちで、広瀬中隊は勝利を収めることが出来た。次は、武装競技である。各中隊から二人ずつ出る。競技は、一同、上着、ズボンを脱で寝る。そこへ非常呼集のラッパが鳴る。衣服を着け、靴を履き、ゲートルを巻く、このゲートルの巻き収めの端が、ズボンの両側の縫い目にピタリと収まらなければならないのである。これは競技の時ばかりでなく、日頃よく小隊長に注意される事項である。帽子を被り、あご紐を掛け、銃をとり、出来た者から整列する。三郎は五番目に整列したのだが。先の者、検査で次々と落とされ、三郎は二番に上がった。三郎にとっては重大な出来事であった。小学生の頃より走るのが遅く、いつも後から二番目くらい。金棒も、箱と跳び、体操の時間や運動会が大嫌いであった。運動会で友達は、いろんな賞品をもらって喜んでいるのを横目で見ながら、自分の体力の無さを嘆いた。こんなことも有った。当時学校の勤労奉仕で炭焼きを手伝いに行かされ、帰りには各自、炭一俵を負はされた。三郎も農家の子である。学校が終わると、家の手伝いを随分とさせられた。が炭一俵を負う事は初めてである。皆が負うのだから、当然三郎も負い、山を降っていた。すると下から同級生の鈴木五郎君が上がって来て。「中平、おらが負うちゃろう」彼は我が荷を奪いとるように負い、すたすたと降りて行った。五郎君は自分の荷は逸早く下の道路まで負い降し、三郎を見かねてか助けに来てくれたのである。近くにいた担任の先生は、不機嫌な顔で三郎を睨んでいた。
話が故郷へとんでいたが。三郎が二位になり賞品をどっさり貰った感激は、今まで感じたことの無い喜びであり、自信を得た想いであった。競技も順調に進んでいる。
其の時である。はるか東の稜線に一台の軍用車が現れ、こちらに向かい、砂塵をまきながらばく進して来る。さて何事だろう、三郎達の見たことも無い、小型で幌張りの車。  つづく

続 つちのこ

2007年03月12日 | Weblog
続 
 
 3月11日、桜の手入れが、お昼までとなったので、あのツチノコを捜しに行こうと思い立ち、先だって山中園長さんに教えてもらった吉ケ成へ車を走らす。吉ケ成と言えば、昔し、文化財調査で安居土居のミニ八十八箇所よりの帰り、吉ケ成へ降りて来た記憶がある。そこの降り口に渡辺栄遊さんのお家が在った事を思い出した。よっしゃ、あの人に聞いてみよう、よく内で買い物してくれる人である。そこは空の開けた典型的な日本の故郷のような環境である。しかし、あの戦争中、この山奥にアメリカの爆弾が落ち、大事があったと言う。また50年の台風では大災害を受けた地区でもある。もしかしたらツチノコも、この災害に遭ってはいるまいか、心配ではある。とにかく渡辺さんに会って聞いてみよう。 幸い彼は、悠々自適の生活のようで、広い作業場で、蜜の巣箱を作っておられた。
 訪問の趣旨を説明すると。笑われるかと心配していたのたが、「おお知っちょる」真剣に対応して下さる。いやーこれは本物かも?と自信がわいた。車で伝説の場所まで、無理に案内を請う。「此処よ、今は工事で大分変わっちょるが。ここには石のクロがあり、草や、くずが生い茂り、蛇のよく出る所じゃった。」話では昔の「傘の様な物が放うちゃあると思ったら、それがツチノコじゃったと」恐いこわい、今にもチューウと鳴きながら出てきそうな場所であった。伝説とは言え、場所まで特定できるとは、これは本物。子々孫々?今も棲息の可能性はある。まだ冬眠中あるので、5月頃山菜とりを兼ねて、探検隊を募りたい。

   写真は特定された現場

 

頑張ってます

2007年03月12日 | Weblog


 赤いヘルメット、腰にはノコギリ、手にはチェンソウ、足は地下たび。完全装備の林業戦士。この出で立ちで3月11日桜ボランティアに現れた、妙齢の婦人。さて何者であろう。皆の目は一斉に注目。
 何を隠そう、この人こそ東京生まれの、高知農大育ち。ここ山奥の池川にiターンした、通称くりけい、栗田桂子サンである。新聞にも大きく報道されたが、高新の「閑人調」に「茶」のネームで、ユニークな記事を出している人。
 さて腕前は、幾つかの木を手際よく片付け?ある大きな桜の木にやっと登った。のは良かったが、どうした拍子か、アワや墜落か!際どいところで、さすが枝にしがみついた、サルも木から落ちる。いや失礼、美人が木から落ちよった゜下でハマちゃんが、大きな目をパチクリ、一同固唾のんだ一幕。この日一番の出来事であった。落ちてたら、下は急傾斜地、南無阿弥陀仏。

池川応援団さくらボランティア

2007年03月12日 | Weblog

size="5" color="lime" style="line-height:160%;">サブロー日記
 
 3月11日 池川応援団では、狩山地区の、桜のテングス病の駆除、枝の剪定を行った。風は寒いが、お天気になり、地元の皆さん、応援団の会員、役場の支所長さんをはじめ、小野さん他、県の刈谷さん、毎年来て下さるお医者さんをはじめ多くの皆さん30名ほどの方が協力して下さる。事務局の三好御夫妻の、指示に従い作業は順調に進み、お昼で終りとなる。ここ楮原地区の桜は4.50年も経っており、テングスも助けようも無いまでに感染しており。しかも杉の植林に埋まり込み、もう放棄するより他に方法はないと考えられる。また大平地区の桜は今回の手入れで13本ほどは助けることが出来た。来年は病気に強い山桜を各戸に配り、適当な場所に植えてもらったらどうだろう。

晩酌の後  酔いが覚めぬ間に

2007年03月06日 | Weblog
 思いがけなく小包が来た。誰からであろう、ワクワク、発送人、本人となっている。やっぱり、ガックリ。郵パックである。先日、出来れば14日頃まで通帳へ御入金頂ければ幸せです、と来てた。
 中身はサザエさん。よろしく壷焼き。 ところが部分入れ歯の歯が痛い。もぐもぐするばかり。食べることが出来ない。あきらめる。なさけない事よ.

 話は変る 。まゆおば、(克樹の叔母、片岡美由貴)の言う通り、文旦の皮、誰が剥ぐ、これが大変、やっぱり値のするLでなければ。もう酔いも覚めてきた。? それとも酔いが深まったか?。おやすみ。
  サブロー