サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

草鞋を履いた関東軍       21

2011年02月27日 | Weblog
     草鞋を履いた関東軍     21
   2011-2

汽車は真っ黒な煙を吐いて南へ南へと走り出した。私達を乗せてくれたのは無蓋車なので、その煙をまともに受けながらの旅であった。みな痩せ細った黒い顔に目玉だけが光っている。それでも歩く事を思えばまことにあり難い事、見知らぬ町や村。故郷を思い浮かべながら汽車に揺られていた。これで釜山(プサン)まで行って、そこから船で日本へ、後三、四日で我が家に帰り着けるのだ。嬉しさで胸いっぱい、家の両親兄弟、なんぼか心配しちょるろう、早う帰って吃驚させたい。そんなこと、あんな事思いながら列車は走る、走る。
やがて汽車は夕方近く鉄(てつ)原(げん)(チョルウォン)と言う駅に着いた。こんな小さな田舎の駅にどうして停ったのだろう。暫くすると四、五人、例の自動小銃を持ったソ連兵がやって来て。ここから南へは何人も通さぬと言う。通行の証明書を見せるが。通してくれない。この先にソ連軍と、連合軍と占領しあった境界線が有るらしい。この証明書では通すことは出来ないと言う、これは困った。してみると、どうして朝鮮の公安委員は私達をこの汽車で此処まで送ってくれたのだろう、朝鮮側も知らなかったのであろうか?朝鮮側は出来るだけ日本人を本国に送れば厄介者が居なくなると言う勘定。ソ連側は、わが占領域にとどめて使役にでも使おうとの思いだろうか。とにかくここより一歩たりとも日本人は南へ通さぬ構えのようだ。私達はこんな境界線があるとは夢にも思っていなかった。終戦に関してはなんの情報も、我々は知る事も、知らされることも無かった。
これからどうするか、色々思い思いの事を話し合ったがまとまらない。それもその筈、終戦のこと、朝鮮の事、何の知識も無くここに突き当たったのだ。相談する人も居ない。ソ連兵もどうしろとの指図もない、ただ此処からは南へは行かさないと言う事だけははっきりしている。そうこうしている内に夕闇が迫って来た。すると又ソ連兵が来て、銃を振り回しながら、今度は鉄製の有蓋車貨車に乗れと言う、小さな窓が一つ有るだけの暗闇に全員詰め込まれた、詰めて、詰めて、前の者は銃の床尾板で殴られながら詰め込まれた。この状態で一夜を明かすこととなった。皆横にはなれず重なり合うように座る。それでも疲れていたので、うとうとは眠る事が出来たが、つらい一夜となった。
朝早く頑丈な鉄の戸を開けてくれた。皆トイレに走った。さて今日はどうなる事か。仕方なく引き返す事にはなったが、何処へ行くかが、決まらない。何処か大きな町へ、平壌(ピョンヤン)か、咸興(ハムフン)か、元山(ウォンサン)か、との意見が出た。しかし誰もこれ等の町へ行ったこともなければ、その都市の名前すら今聞くのが初めての者ばかり。しかし何処かに行くしかない。ままよ一番近い元山と決めた。都合よく汽車は私達の言う事を聞いてくれ、夕方近く見知らぬ都市、元山駅に着いた。ここでは、終戦後、直ちに街の有志により戦災避難民の相談、援助、そして、ソ連側や地元朝鮮人の要求する使役の割り当て等、敗戦後の日本人の世話をすると言う、誠に崇高な奉仕の心を持った人々が会を創り活躍していた。私達は有難くもこの会のお世話になる事になった。私達のように集団で満州から避難して来たのは初めての事、又少年ばかりなので世話会も、その取り扱いに苦慮しているらしい。やがて会の人より、突然の事で今日はどうする事も出来ない、今晩はこの駅で泊ってくれ。とのことであった。私達は久しぶり屋根の下で寝ることが出来た、足も伸ばす事ができた。
寒さで目を覚ますと早くも昨夕から世話をしてくれていた、世話会の人々が来て何かと面倒みてくれる。朝飯として大きな魚の丸干しした物を下さる。三郎達は、こんな魚は見たことも無かった。口にするとカスカスとして味もしゃしゃらも無いが空腹に久しぶりの贈り物であった。
少年ばかりのこの避難民、日本人世話会ではいろいろと思案の結果、今元山市内に在住の日本人家庭に引き取り世話をする事になったとの事。ただでさえ苦しい終戦後の生活、そこへ他人を引き取り世話をすると言う事は並たいていの事ではない、敗者となった日本人に対し、ソ連は勿論の事。朝鮮人のお返しは厳しく、自分の家庭を護るだけでも必死のところへ、見ず知らずの少年を抱え込むのだからたまったものではない。やがて三郎も数名の隊員と共に配られることとなり、一人の青白いインテリ顔の小父さんに連れられた。とぼとぼと街中を歩き始める。そして一人、また一人と預けられて行く、各家とはよく話が出来ていてかスムーズに引き取ってもらえる。三郎はなかなか配ってもらえない、最後の一人となった、、、、、、、、、つづく

有難う

2011年02月22日 | Weblog
私のブログ見ていただいて有難うございます。店の暇な時はパソコンに向かっています。拙文ですが見ていただいているとは大変励みになります。また次をこれから思い出しながら書きたいとおもっています、乞うごきたい 信子様      三郎

草鞋を履いた関東軍     20

2011年02月19日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍     20
   2011.2

 真っ先に開放された私達中隊は、日本に帰るのに、どの方向に歩けばよいのか分からない、地図も無ければ、教えてもくれない。ただこの鉄道を南に向かって歩けば朝鮮に出るだろうと思うだけ、この満州に来た時、朝鮮の羅津から汽車に乗ったのだが、ここ東京城(とんきんじょう=トンチンチョン)に着いたのが夜明けであり、沿線の景色も何一つ見る事も無く、この駅に降り立ったので、どちらに歩けばよいのか、また道路が何処にどう通っているのかも分からない、とにかくこの鉄路を南に歩く事に決めた。
 それにしても、あの一緒に収容されていた関東軍の兵隊や、一般開拓民の人々はどうなったのであろう。今になってやっと関東軍の様子が少し分かってきた、日本兵から漏れ聞くところによると、開戦当時、関東軍の主な精鋭部隊は一部を残し南方の戦線へ移動し、その後に現地召集で急ごしらえの新兵をこれに当て、員数を合わせていたようだ。しかし戦闘訓練は出来てなく、また銃さえ無かったそうである。これでは戦さは出来なかったであろう。
そうだ。あの関東軍の大親分は、とうの昔、草鞋(わらじ)を履いていたのだ。わが郷土部隊、朝倉の44連隊も南方や本土防衛に、密かに転戦していたようである。
 しかし一部残された関東軍の精鋭はソ満国境で、又牡丹江の防衛に死力を尽くし奮戦したとのことである。そうだ、その戦いで生き残った兵隊が、我々と先に出逢ったあの草鞋(わらじ)を履いた兵隊であり、沙蘭鎮の攻防で無残な死を遂げていた兵隊さんであろう。
 三郎は今更ながら、その激戦の様子を想像しながら、この図佳線(図門から佳木斯(チャムス))の鉄路の枕木に、わが歩幅を合わせながら一歩一歩日本へ日本へと歩を進めるのである、朝鮮までおよそ400キロ、100里はあると言う。食糧も持たず、先のわからない苦難の旅が始まった。
2キロほど歩くと、この線路より数百メートルほど離れた所に、日本人の婦女子が収容されていた。われわれの通るのを見付けて一人の中年女性が、「待って、待って」と大声を上げながら駆け寄って来た。「どうか私達も連れて帰って」と泣きながら訴える。
しかし私達は人数に合わせての証明書、どうする事も出来ない、その理由を話し、まことに気の毒な事ではあったが、断わざるをえなかった。そこの収容所には女な子供、百数十人が収容されているとの事であった。
夕方近く長いトンネルの入り口に来た。入り口の両側には塹壕を築き銃眼が備えられていた。日本軍がこのトンネルを護る為のものであろう。
私達、今日どのくらい歩いたであろう、開放第一日目の嬉しさもあって、ちょっと頑張り過ぎたか、皆へとへとになった。今日はこのトンネルで寝る事と決まる。食事は各自、ポケットの底にある大豆である。大豆は線路脇の畠で盗んで来たもので、それを空き缶で炒り、ポケットに大事に持っているのである。有難いことに、この時季、満州は農作物の収穫期であった。
暗くなって来たので、皆それぞれ、文字通り枕木を枕に寝る準備をしていると、ゴオーゴオーと地響きの音、「そら‼汽車が来た!」一同あわてて両側の壁に張り付いた。その音が近付いてくる。それは汽車ではなく線路の補修点検用の、手漕ぎの台車であった。我々も吃驚したが、その満人達も危険を感じたのか全力で漕ぎ、逃げるように走り去った。
一夜明け、それからの毎日線路伝いの行軍が続く、橋はことごとく爆破されており、その破壊された部分は枕木を使って、川底から升目に積み上げ補修されていた。駅の在る所は満人の集落が在るので危ない、そこは急いで通過する。満州では駅と駅との間が随分と遠いので、その中間に信号所がある。その信号所には鉄道を護る番人が居り、その宿舎もある。付近にはその人達の生活の菜園場が有った。これは有難い、荒野の中の一軒屋、その周りには西瓜、マクワウリ、ジャガイモ、カボチャ、色々の野菜があり、その主は何処かに避難したのであろう居なかった。これは我々に天から与えられた贈り物、助けであろう。今夜はここで泊ることとなった。それからは、毎日この要領を覚え信号所で泊りながら南へ南へと歩く。
何日歩いたであろうか、その線路の、要所、要所にソ連軍が駐留して警備をしている。そこを通過する場合は勿論通行証明書を調べられる、そして全員のリュックの中を探られる。そしてめぼしい物は全部取り上げられる。時計、万年筆はいの一番に取られた。守備兵全員が気のすむ迄探り終らなければ通してくれない。すべての検問所でこれの繰り返しである。終いには我々から先にリュックの中身を広げて、どうぞ好きな物を取って下さいと提示するようになった。
ある日は守備隊の隊長、カピタンが酔っ払っていて、部下の自動小銃を取り、我々の頭上向けダダダダーとぶっ放す、弾が無くなると、つぎの兵の銃をとり、これをもぶっ放す、一回引き金を引くと70何発かの弾が飛び出す。この酔っ払った将校が、銃口を少しでも下げれば我々は皆殺されていたであろう。気違いに刃物だったが、幸いここでも命拾いすることが出来た。撃って我々を威嚇すると言うより自動小銃の性能を誇示したかったのであろう、日本軍にはこんな性能のある銃は無かった。
線路は次第山深く急勾配で上がっていく、ここは老爺嶺(ろうやれい=ラオイエリン)山脈の中らしい、ここの線路脇に唐辛子を真っ赤に屋根に干してある、朝鮮人特有の集落があった。そこを通っていると、そこの住人達が大勢出てきて我々を遠まきにして近づいて来た。
我々が日本に帰る事を伝えると、いかにも納得し難い表情で我々を見つめていた。この人達も日本の国策によりこの満州に入植して来た人達である。日本が負けた今、この朝鮮人は、どのようになるのであろうか?日本人の様にソ連に拘束はされなかったようであるが、満人はどのように、この人達に対処しているのだろう。落ち行く私達を見て、他人ごとではないと見ているのであろう。
長い事歩いてきた私達の中に、靴が破れたり、靴づれで靴が履けず裸で歩いている者が数人いた、それを見かねてか、この人達、わざわざ新しい草履(ぞうり)を持って来て私達に履かせてくれた。有難いことである。今度は草履(ぞうり)をはいた義勇軍となった。 
日頃朝鮮人をみくびっていた日本人、今此処に日本の少年達に同情の草履を恵んでくれる。誠に有難い、感謝の気持いっぱいで此の集落を後にした。
其処よりしばらくのところに老爺(ろうや)駅があった。この辺りが満州から朝鮮方面へ越す標高最高の峠であろう。見渡す限り山また山、斧鉞の入らない山岳地帯である。この辺りに、山下将軍の財宝が隠されていると言う、この秘宝はマレー半島や、ヒリピン方面での戦利品。山下将軍は先年関東軍、第一軍の司令官としてやって来た。そ際、その莫大な財宝をここに隠匿し、来るべき決戦に備えたとの噂である。
ここは関東軍が朝鮮を護る最後の砦である。この老爺嶺、これに続く長白山脈に立て籠もり、あくまでもソ連の進行を食い止める作戦であったようだ。
鉄道は益々急勾配となり、線路はループ式トンネルとなっていた。その中は何箇所も日本軍が防衛のため爆破していて、今だに汽車は通ることが出来ない、したがって我々も鉄道を当てにして歩いていたのだが此処で線路と別れ、それらしい道を探し、やっとトンネルから出てきた線路へ再び出る事が出来た。頼りはただこの線路のみである。誰もが疲れ、ただただ黙して歩くばかり、すると何と日本の将校が日本刀を引っ提げ、一個小隊くらいの満軍の兵隊を引き連れ、われわれと行き違いとなった。そこでしばらく色々と立ち話をしたのだが、その将校はこれからあの山へ登る。「お前達元気で日本に帰れよ‼」と言って、その兵を引き連れ山に消えた。私達は不思議に思えたのだが、あとに聞くと、毛沢東と、蒋介石が喧嘩を始めたらしい、日本将校は、そのどちらかに雇われての行動であったのではなかろうか。
暫く行くと、今度は突然頑強そうな満人に出会った。向こうさんもびっくり、日本の少年の一団に逢うとは?、片言の日本語で、「此処を動くな、ここで待っておれ」と言って道の下へ走って行った、下の方を見ると数十軒の満人の集落が見えた。我々はこれは危ないぞ、あいつが人を集め追剥ぎに来るつもりだ?「それ急げ」私達小走りにその場を逃れた。日本人に恨みをもつ満人が暴徒となって日本人を襲うと言う話しはよく聞いていた。しかし我々は一番先に解放され南に歩き出したので、暴行するつもりの満人もその準備が整っていなかったのが幸い、事なきをえた。
それから何日歩いたであろうか、国境の街、図門に到着。全員無事、朝鮮に入る事が出来た。見知らぬ街を歩いていると、「あ?日本の日の丸だ‼」皆歓声を上げる。よく見ると大きな建物の上に日の丸の旗が、へんぽんと翻っている。「日本が負けたと言うが、あれを見よ、負けちょりゃあせんぞ!」と、その日の丸を目当てに勇んで近づくと、その日の丸の四隅に何か模様があり、中の赤い丸も変だ、映画で見た、大石内蔵助が討ち入りの際たたいていた太鼓の模様みたいな物見える。こんな国旗見たこと無い。私達は唖然として足がすくんだ。誰かが「ありゃあ朝鮮の旗ぞ?」と言った。皆黙った。そうこうするうち、朝鮮の公安警察がやって来て日本人世話会に連絡し、その人達によっていろいろ世話をしてもらい、この図門から汽車に乗せてやると言う。一同大喜び、しかし汽車といっても無蓋の貨車であった、それでも有難い事、みな疲れきった脚を台車に放り投げ、振り落とされないよう注意しながら、憧れの日本へと発車したのである。が、、、、、、、、、。つづく

草鞋を履いた関東軍

2011年02月08日 | Weblog
   草鞋を履いた関東軍      19
 2011.1


 沙蘭鎮の一夜が明けると、一行長蛇の列は、東京城方面へと連行されて行った。約40キロの行程であった、夕方近く大きな川岸にたどり着く、この川は鏡白湖から流れ出て牡丹江へと続く水量豊かな大川である。そこには大きな橋が架かって居て私達が渡満し訓練所に入所する時も、ハルピンに行った時もこの橋をトラックで渡った事だった。今は日本軍が追手を防ぐ為、橋は壊され跡形も無かった。東京城はもうすぐの所だが今日はこの橋の袂で野営しなければならない、その近くに小さな満人があった。その中に、長い土壁で囲まれた大きな家がある、屯長(村長)の家であろうか。その塀から、見た事もなかった、きれいな満州娘が体を乗り出し我々を珍しそうに覗いている、三郎は初めて見るクーニャンである。お下げの前髪の奥に涼しい瞳が光っている、透き通ったような色白の顔、その衣装といいまるで人形のようである。おそらく屯長の娘であろう、今までは日本人を恐れて我々に顔を見せる事は無かった満人の娘、日本が負けた事を知り、怖いながらも優越感と珍しさをもって我々を見おろしているのであろう。満人でも裕福な階級はこんな生活をしているのだな、と、今更ながら満人の生活の裏を垣間見る事が出来た。
 明けて、この100メートルはあろう川を渡らねばならない。しかも牛を連れての事。これは大変、馬を連れている者は馬にまたがり川に乗り入れた。途中までは何とか行くが対岸に無事たどり着くものは少なかった。途中急流に流され、馬を捨て何とか泳いで渡ることは出来た。ここで何頭もの馬が流されてしまった。さて次は牛を渡す事になった。牛は舟で渡す事になった、人が舟に乗り牛の手綱をしっかり持って牛を泳がしながら渡すと言う寸法である。それにしても三郎の出来る業ではない、困った、困ったと思いながら、昨夜繋いだ川辺に行ってみると、何と、わが「霧島」が居ない、さては昨夜、闇に乗じて近方の満人に盗られたか?三郎の牛だけでなく何頭もの牛が盗られていた。盗られたのは悔しいが三郎は胸を撫で下ろした。とてもあの牛を曳いてあの大川を渡すと言う芸当は自分には出来ないと思っていたので、これこれ、此れで良かったのだ、ひそかに安堵の胸を撫で下ろした。
 全員が無事渡河することが出来た。数頭の牛馬も渡ったのであるが、ここでソ連兵にすべて没収されてしまった。
そして東京城へ向かっての行軍。いつの間にか栗田所長はソ連軍に連行されており、それ以来見る事は無かった。
やがて東京城。ここは8―10世紀ころ、中国東北地方を治めていた渤海王国の首都であった。今は首都とは程遠い落ちぶれた田舎町となっているが。この東京城は多くの義勇隊、開拓団、関東軍の交通の要衝の地である。駅前広場には私達だけでなく、開拓団の人、関東軍の兵隊、一般人等大勢の人で混雑していた。ソ連もこの多くの日本人を捕虜にしたものの何処に拘留するかに頭をかかえて居るのであろう。長いこと待たされる。三郎はあまりの退屈さで駅構内をぶらぶら見て廻る、この図佳線鉄道、今は汽車は通っていないようである。おそらく日本軍が敵の進行を防ぐため要所、要所を爆破したのであろう、駅には幾本かの貨車の引き込み線があり、貨車が何台も連結されたまま停っている。好奇心に誘われて見て廻ると、その中の一台に、何と大きな、大きな大砲の弾が載せられている。その大きさたるや見た事も無い大きさである。一発の弾が一つの木枠に入れられ梱包されている。弾の直径が40センチ、1尺5寸はあろう、高さは自分の背丈くらいある。いつか聞いたことがある。ソ満国境、虎林にそれは、それは大きな大砲が備えてあると。この大きな弾を飛ばすには相当大きな大砲でないと発射する事は出来ないだろう、三郎はその情景を想像しながら、こんなのが有るのに日本は負けたのか?そうだその大砲の弾が之だ、と独りでがってん、この弾が、其処に運ばれていたのだが、残念ここに無念の姿をさらしているのだ。おそらく日本本土から運ばれる途中だったのだろう。
やがて集まれ、集まれの声が聞こえて来る。行って見ると整列させられ、ソ連兵による点呼であるが、なかなか員数の集計が出来ないらしい?点呼が終わると、われわれの前に関東軍の軍医数人がソ連将校に連れられてやって来た、皆将校服を着ているが襟章は除けられている。その中の一番上級らしい軍医が、「今日から皆さんの健康管理をする事になった、安心してもらいたい」と言って各中隊へと分散して行く、しかしこの軍医たち一時間も経たない内に何処かに消えてしまった。これはおかしい、これは国際法に定められた捕虜の待遇の一コマをソ連が演じたのでは?と。その後軍医の現れる事はなかった。
そして我々の目の前で、父親と少年が引き裂かれる場面が見られた、父親は泣きながら訴えていたが許されなかった。おそらく親はシベリヤ行きのクループに入れられたのであろう、少年はどうなって行くのだろう。
私達は数刻ののち、駅から数百メートル程の所の大きな陸軍病院に収容された、この病院は完成したばかりで屋内には何の設備も備品も置いてなかった。中庭には食糧の高粱が幾袋も山積みされていた。これは有難い、ここ数日は食事らしい物は何一つ口にしてなかった。最初の四.五日はこの真っ赤な高粱飯で過ごす事が出来たが、日毎に少なくなり終には一日一回お粥のような物が食器の底に少し有るだけとなった。そして炊事用の薪がなくなった、そこで新築したばかりの建物の、天井の板や壁板をはがし薪とした、毎日の事なので全ての天井が無くなり屋根板がむき出しとなった。塩分も一つも無かった。ところが、誰かが敷地内の一角で日本軍が塩を焼き捨てた思われる真っ黒な土を見つけた、その真っ黒の土を水で溶かし、その上澄みの水を煮詰めると、何と色は黒いが上等の塩が出来た。みな思わぬ塩分の補給をすることが出来た。ところが塩が出来たが、今度は食べ物が無くなって来た、自分の食べ物は自分で工面しなければならない事となった。とはいってもここは日本軍がこの病院を護るため、周囲に深い、深い戦車壕を堀り廻らし、その上に三重の鉄条網を張っていた。要所、要所には自動小銃を抱えた見張りのソ連兵が目を光らしている。この難所を潜り抜けなければ何も出来ない、ここを潜り抜け満人の作ったジャガイモやカボチャを盗りに行くのである。命懸けの仕事である。此処までせっぱ詰まった状態になって来たら団体とか義勇軍隊員として、とか、規律や統制はなくなっていた、誰も死ぬか生きるかの毎日である、三郎もじっとしては居たら飢え死ぬる。ある晩、闇に乗じて三人の友人とリュックを背負い、鉄条網をくぐり四.五メートルもある戦車壕を滑り落ちた。無事脱出する事が出来た。壕を離れると直ぐ其処に鉄路があり、それを伝ってしばらく南の方へ歩くと、其処に壊れかかった橋が小川を渡っていた、全く当ては無いのだが、この橋を渡ればなにか有りそうな、ひそひそ話しをしながら危ない橋を渡る、暫く行くと、幸いジガイモ畠に突き当たった。これこれ、これはしめたもの、薄明かりの畠を手探りで探し、丸々とした芋をしっかりとつかみ。それぞれがリュックに収める。欲張りたいのだが、帰りのあの戦車壕を登り鉄条網をくぐらねばならないと思えばそこそこにして帰ることとした。天の助けか皆無事隊に帰ることが出来た、皆寝静まった中、リュックを床下に隠し、そっと我が毛布に潜り込んだ。これで数日は命が繋げる、人知れずほくそ笑みながら目を閉じた。
退屈なある日の事、中庭でけたたましく自動小銃の音がした。皆駆け寄ってみると、日本の兵隊が無残にも胸から腹へ何発もの銃弾を受け悶え苦しんでいた。そこには赤ら顔をしたソ連兵が銃を手に突っ立っている。聞くと、ソ連兵が日本兵に帯皮を要求したが、それを拒否したため撃れたとの事である。日本兵の帯皮がソ連兵にとっては、それだけ珍しく上等に見えたのであろう、騒ぎを聞きつけソ連将校がやって来て連行していった。日本兵は戦友によって担架で運ばれて行った。
この事件があって数日後、私達義勇隊員は軍人達とは別に、2キロ程離れた小高い丘の上に在る、日本人の開拓団の跡に連行され中隊ごとに分散収容された。ここの我々を監視するソ連兵は粗暴な兵が多く、ちょっと気に食わぬ事があると銃で殴ったり、わが幹部の部屋に怒鳴り込んだりしていた。ある日数百メートル程下に流れている小川に行き洗濯をするよう指示された。久しぶり開放されたような気分で下りて行くと、そこには十数人のソ連兵と数台の車が居並び、見た事の無い大きなカマに真っ白な蒸気を噴かしていた、そのカマに我々の衣服を脱がし、消毒やシラミを駆除するとの事である、私達は褌ひとつにされ、消毒の終わるのを待たされた。小川にはソ連兵も川辺で無邪気に戯れていた、その中の一人が携帯の手榴弾を川に投げ込む、爆発音と共に1メートルほどの水柱が立ち、暫くすると鮒のような魚が白い腹を見せ、あちこちと浮かんでくる。それを拾えと私達に強制する、これを拒むと服のまま川に投げ込まれるのである、幸い三郎は逃れたが数人投げ込まれた、なかでも投げた手榴弾が爆発しなかった。その不発弾を取って来いと、川に放り込まれた隊員がいた。これを見守る私たちも生きたここちはしなかった。やがてこれを無事拾いあげて来た戦友に一同安堵の胸をなでおろしたのである。全く命がけである。
三郎は洗濯を終え二.三人と共に少し遅れて宿舎へ帰って見ると、全員集合されていた。ソ連兵によって隊員を選別している。自分は普段の通り隊列の自分の位置に割り入った。この選別はソ連へ連れて行かれる者と、日本へ帰される者と、背の高さによって仕分けられているようだ、三郎は洗濯から帰るのが遅かった為、わが隊列はすでに選別が終わっていた、ここでも三郎は命拾いをした。
それから何日過ぎたであろう、日にちは全然分からない、そろそろ朝夕秋を感じるようになったある日、東京城駅前に連行された。連行するソ連兵が「ヤポンスキー、トウキヨウ、ダバイダバイ‼」と意味は分らないが、東京、東京と言うことはよく分かる、ひょっとすると開放されるのではないか、と、かすかな望みを胸に駅前に到着。各中隊毎整列、ソ連の将校四.五人がなにやら相談している。やがて通訳より、「これから皆さんは日本に帰れます、中隊毎、20分毎に出発してください」との事、一同喜びのどよめきが起こった。そして一団ごと員数を確認のうえ、なにやらロシヤ語で書いた許可書に大きな三角の印を捺した紙を貰った。わが広瀬中隊はあちこちと満州の中の軍事工場等、小隊単位で徴用されていたので本隊は百名に足らず、愛媛中隊と合同し百十数名の団体を組み出発する事となった。しかも一番先に出発を許された。三郎もこの大満州に骨をうずめる覚悟でやって来たのであるが、今は無念の一歩を、錆びた鉄路の枕木に降ろさなければならなかった。        つづく