サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

秋葉祭り

2007年02月13日 | Weblog
 町村合併で、秋葉の祭りも吾が町の行事となった。これからは、わが町のものとして関心をもたなければならない。この祭りは、もともと平家の落人が遠州秋葉山から勧請して来たとの事。トンチキチンの鉦の音も、あの笛の音も、何故か昔の公達官女を偲ぶと、一抹の哀れを感じる。
 それにしても、まあ、大勢の人が来たものよ!。大規模林道が通ったこともあってか、大型バスも23台停って居た。一般車は3キロほどの道にぎっしり駐車、これには驚いた。私達一行は、お神幸が来るまでに秋葉神社、ほぶすなの大神にお参りするべく、娘2人、孫2人を従えて急傾斜の道を登る、神社下の横道には昔どうりの店屋がひしめき合っていた。孫がいち早くムシキングの絵の綿菓子を買った。うどん屋は超満員。お参りして、坂を降りた其処に,猪肉入りのうどん屋?が有った。小さなお堂の庭で、ゆっくり座れておいしい昼食に有りつけた。それから長い事待って御神幸を観て帰途につく、帰り都から長者へ抜けるはずであったが道が分からず、変なところへ入り込む、孫が「おぢいちゃん免許証もっちょるの、、ときた」「ううん、こないだ書き換えたばかりの新品をね」
   
   油売りが 油を売っていたよ?、、、、、。

メジロが来たよ

2007年02月06日 | Weblog
前に 裏の干し場に蜜柑を置いていたらメジロが来て楽しませてくれたが あれからにしん いやメジロは何処へ行ったやら、、、何年たったであろう 昨日隣の植木で見かけたので 早速わが茶の間の窓に蜜柑を置くと すぐ来てついばみ出した
良かったよかった 車や人がその下の道を通るとパット逃げるのだが 過疎の街 めったに人が通らない 嬉しいやら寂しいやらである 今日このころ サブロー

草鞋を履いた関東軍   サブロー日記  8

2007年02月04日 | Weblog
サブロー日記 8
草鞋を履いた関東軍  ○8 ああ満州

 ここ新潟港は明治元年国際港として開港され、多くの人々を大陸へ送り、また迎えた日本有数の港である。いまや三郎少年は大志を抱き、旅発とうとしている。聞くところによると、われわれが出港する時は、地元の女学生が、この岸壁に勢揃いし、日満国旗を振りながら、「、、、港新潟心から貴方の幸を祈ります、、、、」と、「土の戦士を送る歌」を歌って送ってくれる。との事であったが、なにが、誰一人送ってくれる者は居ない。訓練本部の係官が二三人小さく手を振ってくれていた。もうこの時期、他人を送迎する余裕なども無く、皆軍事工場へ動員されていたのであろう。
いよいよ日本海へ出る。「天気晴朗なれど浪高し」冬の日本海は凪ぎの日は無い。波は大きくうねり、ウラルの風が容赦なく吹き付けていた。やがて救命胴衣のつけ方の説明。この頃はすでにアメリカの潜水艦が出没すると言う。先年、気比丸遭難事件が発生している。説明する方も、聞く方も真剣そのものである。気比丸遭難は、1941年(昭和16年)11月5日、日本と大陸を結ぶ日本海汽船気比丸5000トンに、満州の現地で3年間の訓練を終了し、いよいよ開拓団として、現地に入植する事が決まった84名の義勇隊員を乗せ、一時帰国のため、朝鮮の清津港を出港した。その年には独ソ戦が開始されていた。ソ連はドイツの潜水艦を恐れ機雷をばら撒いていた。まだ日本とは開戦してなかったのだが、不幸にもそのソ連の浮遊機雷に触れ、船客357名中、乗客136船員20名の犠牲者を出した。その中、義勇隊員24名の死亡者を出したのである。
で輸送指揮官の話も真剣であった。注意事項の話の終る頃には早くも船酔いが始まった。勇躍大陸への壮途も船酔いには勝てず皆打ち沈んでいる。中には元気者もいて、これ幸いと配られた食事をかき集め、盆と正月が一緒に来たとばかりに黙々とかきこむ隊員もいた。
三郎も船中では殆んど食事は喉を通らなかった。二夜三日の航海も無事に、昭和19年2月21日朝鮮の羅津に上陸。ここは冬の事でもあろうが何と殺風景な街であろう、港を遠巻く北の山々は赤茶けた地肌を見せ、異国の街に立つわれわれを無表情に迎えてくれる。上陸すると船酔いが収まり急に腹が空いた。船の中ではあんなに有り余った食事も今はうらやましい限り。港のホテルの食事では腹半分。家を出るとき母に、「これは愈々困った時に使いよ!」とお守りの中に入れて貰った虎の子の十円札。早くも大陸の第一歩で使ってしまった。200グラムほど入った瓶詰の水飴であった。羅津で一泊。いよいよあこがれの満州へ。
「下車用意 !」小隊長の緊張した声。図佳線の中ごろ、東京城(トンキンジョウ)に着いた。内地の駅のようにプラットホームが無い。線路までの高い踏み段を降りる。夢にまで見た大陸への第一歩である。隊員それぞれの思いを噛み締めながら駅前の倉庫へ、汽車の中とは打って変わって零下何十度の世界である。早速防寒服が支給されたが大勢の事、なかなか時間がかかり、手足がしびれ、かじかみ防寒靴の紐を通すのに一苦労。夜が明け切る。初めて見る満人の街、四囲の様子を見回す。この東京城の駅舎は変わっている。戦地からの軍事郵便で見た事のあるような、城門のような構えである。そこを出入りする満人を初めて見る。中年の女の人は額際を角に剃り込んでいる。男の様だ。観るものすべてが珍しく、三郎は驚きの連続。
三郎達はここより西へ約20キロ。まさに雪の行軍である。この第一歩が希望への一歩であり、戦後に知る侵略の一歩であり、死への苦難への第一歩でもあった。凍てついた雪の道は野を越え丘をこえ果てしなく続く。東京城は城内、城外と区分されている。街を抜ける.
右に左にと曲がりながら坦々たる原野に出た。そこには日本軍の急拵えの飛行場らしいものが作られていた。まだ工事中か、三重の張られた鉄条網の中で、古参兵が馬上から四五人の新兵を口汚く怒鳴りながら作業をさせている。ああこれが日本の軍隊か、義勇軍も先輩後輩の厳しいものはあるが。これほどのことは無い。兵隊に行ったら皆あのようにやられるのか、身震いする想いである。日本の軍隊の恥部を垣間見た。
雪の広野の一本道を黙々と歩く。5キロ程歩いただろうか、前を歩いていた中田が突然雪の中へ倒れた。周囲の者吃驚仰天、皆でだき抱えるが、本人ぐうぐうと眠りこけている。何としても起きない、知らせで駆けつけた教練幹部「皆よく聞け! 凍死はこうして起こるのだ。友達が倒れたらすぐに叩き起こすのだ。でないと凍傷になるか、または死に至る」教官は力任せに頬を二三回殴った。やっと正気になった。今まで平気で行軍していた者が突然倒れ昏睡状態になる。危険千万である。冬山の遭難はこうして起こるのか、よく肝に銘じた。三郎自身も心配になって来た。内原の訓練所を出てからの長い旅の疲れ、その上零下何十度と言う雪の道、それから先も四五人雪の中へ顔を突っ込み倒れた。この者や脱落者は後続のトラックに拾われた。幾く丘越えたであろうか、丘の下前方に、目指す寧安訓練所が見えてきた。今まで無言の行軍であったがようやく活気を取り戻し、寧安義勇隊大訓練所に入る。営門に整列した衛兵が先ずわれわれを迎えてくれる。やはり現地だ、衛兵司令の掲げる抜き身の日本刀。乾ききったそこ等の冷たい空気が一瞬凝固するようだ。
その青白く澄んだ白刃の凄さは、われわれ一人ひとりに「此処は大満州の現地だぞ! 気合を入れろ!」と叱咤している様である。整列している衛兵の銃剣もズイとして動じない。私達は疲れきった脚を力の限り挙げて、「歩調とれ」の号令に従い営門をくぐった。
ここにはわが中隊より先に入隊した。大分の武田中隊252名。広島の菅田中隊236名。岩手の杉沢中隊270名。石川の川端中隊248名。香川の戸田中隊220名。栃木、神奈川の孤塚中隊208名神奈川、茨城、栃木混成中隊菊池中隊246名。そしてわが高知の広瀬中隊225名。の大世帯である。これ等の中隊は、この本部中隊を中心として4.5キロの距離に散在しているのである。
 やがてここの所長、陸軍少将、栗田小三郎の訓示が有った。  わが中隊の兵舎は何処?。ところが、わが中隊はこの本部より更に西方角約3キロの所と言う。また重い脚を引張りながら兵舎へと向かう。やがてなだらかな丘に立つと、はるかに見えるわが舎、遠目にも立派な赤レンガの新築兵舎である。やがて丘を下りると其処には元満人が在ったらしく廃屋があり、一本の大きな楡の木に小枝を集めて作った烏の巣が懸かっていた。その根元には日本でよく見る祠まである。一歩一歩が未知の新天地。あこがれだったこの沃野大満洲なのである。この大地に鍬を振るい、銃を執り、満州建国の聖業を期せねばねば成らないのだ。赤煉瓦が近くに見えてきた。「あれだ!」一瞬歓声は鯨波の如く、それが軍歌と変り夕闇迫る大陸の丘にとどろき、やがて長白山の奥深くこだまして行った。
「吾らは若き義勇軍 祖国の為ぞ鍬とりて 万里果て無き野に立たん 今開拓の意気高し」   つづく







サブロー日記  今日想う事

2007年02月01日 | Weblog
   サブロー日記  今日想うこと
 帰国残留孤児に「早期帰国や支援義務なし」の判決。1月31日の高新の一面の大きな見出し、なんたることぞ、終戦時、国は、関東軍は、一般人を置き去りにして、いち早く逃げ帰っておいて。何十年もの苦難の道を歩き、やっと祖国に帰って来た人々に、その義務は無いとはなにごとぞ!。法的義務は無いかも知れないが、同じ日本人として、国家として助ける義務がある。幸い安倍総理が新支援策を検討するとの事。よかったよかったと思う、一安心。


 話は変わる。昨夜のNHK視点論点のアグネスの話、感銘を受けた。この人を文部大臣にしたら日本の教育も、もっと良くなるのでは ? 。
教育基本法をなんぼいじくっても心が無ければね、、、、。

話が変わる。今日2月1日の新聞。閑人調にiターンの人、栗田桂子。と出ている。やっぱり「茶」であったか、確認。この人、昨日もテレビで、森林税のこと立派な意見を述べていた。仁淀の星、頑張って。  
それはそうと、彼女は早や油を売ってるそうな、秋葉祭りにはさぞ面白い油売りが見られることでしょう、楽しみだ。