春雷。
「維摩経」の「十喩」に「是身如電念念不住」がある。
この身は稲妻のようなもの、一瞬一瞬とどまることがない、といった意味。
たしかに、天空をごろごろ彷徨ってそのうち消えるか、
天にも留まれずに地に落ちるかのどちらか。
落ちてもそこに定住したという噂は聞かない。
維摩経の十喩は「電」のほかに、「沫・泡・炎・芭蕉(の茎)・幻・夢・影・響・浮雲」。
ぷかぷか、ゆらゆら、すかすか、もやもや、ふわふわな物象や天象のなかで「
電」は、なかなか際立っているが、烈しい雷光や雷鳴といった属性よりも、
刹那性のつよさで十喩の仲間入りしたものとおぼしい。
あはれあはれ電のごとくにひらめきてわが子等すらをにくむことあり
*電:でん 子等:こら
斎藤茂吉『白桃』
なので、この「電」のひらめきの愛憎の感覚は、わずかだけれども深い感情の襞だと
読むこともできそうだ。ついでにR音の連鎖の加速感。
来ぬも可なり
露の身の夢の間の *間:あひだ
宵のいなづま 『閑吟集』
ふてくされ方が粋ですばらしい。「宵のいなづま」は見たことがない。
薄い灰青の空に淡い菫色の光、だろうか。見たことがない。
いなづまを手に取る闇の紙燭かな 芭蕉
いなびかりを頼りに紙燭をさがしているのだろう。
「晝短苦夜長 何不秉燭遊」もたぶん奥にあって、その所為かどうか、
ぴかぴかの雷の矢の小型を手にしている蕉翁が闇夜に一瞬、浮かぶ。