読書の森

天の火



新元号、令和の典拠は万葉集である。
万葉集は日本に現存する最古の和歌集で、身分の上下を問わず幅広い階層の人の詠んだ歌が収められている。
古今和歌集や新古今和歌集が技巧的優美な印象を与えるのと比べて、素朴で人の心情を直に訴ている。
平安時代以前にこの歌集の原本が編まれたといわれる。
いわば、日本人のこころのルーツと言えるかも知れない。
そこには当然帰化人も存在した訳で、非常に混沌としたものも含めて雄大さを感じ取れる。

私は古典を習い始めたころから、古今集より万葉集が好きだった。
それは60年代中期の事だろうか、飽食の時代に入りかけた日本がどこか嘘っぽく思えた時、万葉集の歌がとても潔く心地よく感じた。
脂粉にまみれ小手先で暮らす後世の宮中人の歌に比べて、生き生きとした素顔の人間が詠んだ歌に思えたからである。


折角習い覚えた万葉集の歌も半世紀以上過ぎた今は殆ど記憶の外にある。
ただ時が過ぎ時代が変わろうと、たった一つ忘れようとしても忘れられない歌がある。



それが新婚の夫が故ない罪に陥り、都から遠く離れた越前の国に流される時、妻が詠んだ歌の中の一首だ。
絶唱と言える。

「君が行く 道の長手を繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも」

あなたが流刑で行く長い道のりを手繰り寄せて焼き尽くしてしまうような神の火が欲しいのです。
あなたに会いたい、隔てる道を滅ぼしてしまいたい。


激しい炎のような愛が眩しく感じる。
平和な二人の仲で詠まれたらいささか引いてしまうが、これは理不尽な圧力によって最早会うことの出来なくなる恋人への相聞(恋歌)である。
そう思うとこの激しさが切々とした哀しみに変わって思える。



あの戦争の時代、生きて会えるかどうか分からない恋人たちはごく控えめなそれと分からぬ相聞歌(恋歌のやりとり)を送り合った事だろう。

自ら望んでも居ないのに戦地に行き、戦火の中に散っていった愛しい人に、この歌を送る事は出来なかったろう。
戦争への道を焼き滅ぼすなど不可能だったからである。

ただ、私はそれほど大きな意味をこの歌が持っているとは思えない。
一途に人を思う時、二人を引き裂く運命をも覆したくなることはあると思う。

その様な運命を私は予感していたのだろうか、この歌に接した時電流が伝わる様に女の気持ちが分かった。
それは多分小さな頃に移転を繰り返し大好きな人たちとの別れを経験した為ではなかろうか?

それにしても、この歌が脳裏に刻まれて離れない事は私にとって良かったのだろうか?
万葉の歌にもっと穏やかで平和な恋歌があったろうにと思われる。
もしかしたら、文学好きな人間は自分の好きな作品に人生を左右される事があるのかも知れない。

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