「きっぱりと冬がきた」と言うのは高村光太郎の詩の一節ですが、今年の秋はまさに「きっぱりときた」印象です。
情趣ある季節の移ろいは日本独特で、日本人の気質に影響してるみたい。「言わぬが花」という事か、露骨に決めつける言い方をしないです。
私も純粋な日本の女ですが例外です。顰蹙を買う言動をしちゃう。
でも全然飛べない、アヒルです。
アヒルと違う白鳥、戦前戦後を通して綺羅星の如く「飛んでる女」が何人かいます。
藤原あきもその一人です。
見出し写真の如く(20代後半)驚くほど美しい人でした。
福沢諭吉の姪で大実業家の娘で女子学習院出、ただし庶子です。
庶子ゆえに疎んじられ、お見合いもせず京都の開業医の許に嫁がされます。優秀な夫だったらしいけど家に縛られて悶々と日々を送ってた。
何せ学習院で仲良しなのが社会運動家の加藤シヅエだったので格式ばったのが嫌だった。
たまたま帝国ホテルの催しへ出掛けてダンスパーティであったのが一歳下のオペラ歌手藤原義江です。
背がスラっと高く目鼻立ちのくっきりと美しい、まるで外国映画から抜け出たような(彼は英国人と日本人芸者の間に生まれた庶子)男、しかも超積極的❣️
二人は激しく惹かれあってしまう。
義江はバツ1で独身ですがあきさんは夫がありながら熱烈なラブレターを送ってしまい、ついに二人は箱根に不倫旅行に行ってしまった。
義江はバツ1で独身ですがあきさんは夫がありながら熱烈なラブレターを送ってしまい、ついに二人は箱根に不倫旅行に行ってしまった。
婚家は激怒、実家から縁を切られ、世間から非難ゴウゴウ、とても暮らせたものじゃない、彼女は義江を追いかけて外地(イタリアなどヨーロッパ)に単身渡航しました。
そして、1930年やっと結婚。
可愛い男の子が生まれた。
明治生まれの男女、としては桁外れの恋、しかもその頃行く人も殆どない世界を駆けて思いを遂げたので、当時は世紀の恋と言われたそうです。
藤原義江は非常に才能ある歌手で日本にオペラを普及させ情熱的で面倒見が良い人でした。
ところがその多情さ浪費癖はすごかった。
あきさんの持参した財産は無くなっちゃったし、尽くせど尽くせど、どっかに女性を作る癖が治らない。
あきさんから申し込んで戦後1957年離婚しました。
藤原あきさんは後年バセドウ病を患って、せっかくの美貌が出目金みたいな印象になりますが、その積極的で明るい性格は損なわず、TV番組に出演して一人で自活していきます。都内の民間アパートの2DKに住んでたそうです。
そこから資生堂の美容部長、タレント議員の走りでトップ当選してます。
全力投球の人だったらしいです。
頑張り過ぎてしまったのか、在職中の1967年69歳の夏悪性リンパ腫で他界してしまいました。
一方藤原義江はその後も彼らしく活躍してますが、1976年77歳で亡くなる最期まで「あきは最高の妻だった」と言ってたそうです。
私はあきさんの出演してたTV番組『私の秘密』が好きでした。祖母もバセドウ病(出目の病状は無かった)でして、興味深いものがあったのです。
彼女はお上品な物腰の人でしたが、相当な情熱があり愛も深い人だったらしいです。
つまり藤原義江が思う存分仕事も恋も出来たのも彼女のお金や働きにオンブしてたらしいし、なおかつ母親のように彼の世話を焼いたとか。
それは我儘で甘えん坊の男の人にとって忘れられないでしょうね。
後年彼女はその情熱全てを仕事に注いだのでしょうか。
強靭な女性だったと思います。