GIFTという物語から私が勝手に感じたこと。彼が紡いだ言葉たちが、私にはどのように映ったかということを記録として綴っておこうと思う。あくまでも私個人が辿った彼の物語の話。
私は感情が渦巻いて波打つとき、文字に起こして整理する。そうすることで自分が抱えているモノが何なのかが明確になり、それに対して自分がどう向き合いたいのか方向が定まるからだ。外に出してもいい言葉と、秘めるべきことの仕分けもできる。これもある意味、言霊と言えるのかもしれない。
GIFTの軸を成す彼の物語をたどってみて、彼もそうやって生きてきたのだなと感じた。私は思考をまとめる過程で、水中から水面を見上げてゆらゆらと揺れる地上の光をぼんやり眺めながら沈んでいくような感覚に陥ることがあるが、あの物語はまさに思考の海の底だった。
思考の海の底まで沈むのは孤独なときだ。波打つ感情を明け透けにさらけ出し、整理する過程を共有できるに相応しい相手がいないとき。そして、それでも、飲み込んで昇華して、答えを出して進まなければならないとき。とことん沈んで真っ暗な中で、かすかな光を探して手を伸ばす。
それは、孤独で寂しい時間でありながら、自分の中を旅する不思議な時間でもある。混ざり合っていた絵の具の色が、次第に何かの形として浮かび上がってくるような不思議な感覚。そうして、ぐちゃぐちゃだった痛みや寂しさは、ありのままの姿を隠すことなく、いつしか1つの風景になる。
思考が浮上すれば、気持ちは定まる。言葉が形を成せば、道は開ける。けれど、その過程で受けた傷は消えることなく、諦めて置いてきたモノたちがその手に戻ることもない。かさぶたがあるけど、治ってない…彼はそう表現した。彼は、どんなにつらく苦しいときであってもそんな局面に身を置き、自らの道を選択してきたのだなと胸が痛むと同時に、「9歳の僕」がなぜ今でも彼の中で大きな存在であるのかがぼんやりとわかった気がした。
等身大の彼の葛藤と足跡を、誰もが抱える胸の痛みにシンクロさせていく過程で、何度も沈んでは、何度も浮上したことだろう。それを繰り返すことで、次第に足場は強固なものとなる。そうやって、何もかもを内包したまま、彼はこれからも力強い足取りで前に進んでいくのだなと、最後にほんのりと明るい光に包まれた気がした。