北京オリンピックのエキシビジョンで羽生くんにハマって以来、短期間でたくさんの映像を見てきて思ったこと。それは、第2の羽生結弦は現れないだろうということ。
私はもともとそんなにスポーツ観戦というものが好きではなく、オリンピック競技の結果もニュースの速報で知るタイプの人間で、長い時間腰を据えて観戦するのが苦手だ。それはフィギュアスケートもしかりで、SPの2~3分程度の時間すら退屈だなと感じる演技が結構あって。難しいジャンプを跳べる身体能力は素晴らしいと感じたが、引き込まれることはなかった。そんな演技も引っくるめた本当の意味でのフィギュアスケートという競技そのもののファンに、私はなれないのかもしれない。羽生くんって本当に特別なんだなと改めて感じた。
羽生くんの演技は息をするのも忘れるような、時の流れを忘れるような、彼の世界観に引き込まれているうちにいつの間にかプログラムが終わってしまったような酩酊感が味わえる。フィギュア観戦初心者の私みたいなものにでもダイレクトに訴えかけてきて、まるでストーリーを持った1つのショートムービーのようで。ただただ美しく、まばたきをする一瞬さえ惜しいと思えるプログラムばかりだ。
羽生くんが現れた瞬間リンクが異世界とつながる夢の空間になる。どこまでもアスリートで勝ちにこだわってきた彼には申し訳ない感覚だが、転倒してもミスがあっても、さらには、本番の衣装じゃない練習中のリンクであっても、彼が氷上で滑っているだけで美しいし、そこだけが切り取られた芸術作品のように感じる。彼が全てを捧げて血のにじむような努力で作り上げてきたであろうその身体と所作はため息が出るほどに神聖だ。
ここまで惹きつけられるのは羽生くんの演技だったからであって、ほかのフィギュアスケーターに資質として求めるものではないのかもしれない。第2の◯◯◯と言われるような華麗なジャンパーは、きっと、この先も各時代に現れるだろう。抜群の身のこなしで軽々と難しいジャンプを決め、フィギュアスケートという競技を牽引していくのだろう。
でも、きっと、第2の羽生結弦は現れない。彼の唯一無二のあの輝きは、彼が歩んできた道のりの上でしか体現できない。夢も、希望も、喜びも、悲しみも、絶望も、挫折も、何もかもをスケートに捧げて高い純度で磨き上げられた輝きは、彼自身にしか表現できないものだ。彼はいつまで私達を夢の世界へ誘って(いざなって)くれるのだろうか。
これは、フィギュアスケートのいろはも知らない、しがない新参者の戯言。
羽生くんに祝福あれ。