ジュディス・バトラー著『非暴力の力』を読みました。
哲学の本、しかもポスト構造主義に分類される哲学者が書いた本なので、難解なのは仕方ないです。
すごく硬い本を読むときは、傍線を引いたり書き込みをしたり、ページの角を折ったりと本を汚して…
それによって、バリバリ噛み砕くようにして読むのが常なのですけれど。こんな感じで。
それでもこの著者と、私の内にもともと在る思想との相性がすごく良かったのでしょうか。
面白くて夢中になってしまい、3日間で読み切りました。
この十年ぐらいに読んだ本の中で、一番読みごたえがあって、エキサイティングで、面白かった。
ジュディス・バトラーは現在、カリフォルニア大学デービス校で教授をしているのですが…
一度でいいからこの人の講義に出席してみたいと思います。
息子によると、米国や欧州の大学の高名な教員の授業には、たいていビデオカメラが入っていて…
ネットで無料公開されているものも結構あって、息子はときどき視聴しているとのことですが。
でも、彼曰く「見てるだけじゃやっぱりだめだ。講師との間の質疑応答に『参加』して…」
「講義を『受ける』のではなくて講義の『場に参加』しないとフラストレーション溜まるんだよ」
確かに、そうでしょうね。
ちょっと前に『マイケルサンデルの白熱教室』という番組が、日本でもテレビ放映されましたけれど…
ああいう活発な「議論スタイル」が、海外の授業のスタンダードですから。
それにアメリカやヨーロッパの大学なら、60歳代の大学生だって、そんなに珍しくないし。
本来日本の大学みたいに「就職予備校」化していて、同じ年代の人しかいない大学なんておかしい。
学問は「いい会社」に入るための、道具なんかである「はずがない」のです。
人間は何度も「学び直し」をしながらステップアップして行くべきものですから。
そもそも日本の大学生、ちゃんと「学問している」人って、文系だと全体の何%ぐらいいるのかな。
その大学を出たという証書さえもらえればいい人がほとんどで、社会もそれ以上要求してないのでは?
衰退国家になるはずですわ、そりゃあ…。
子どものころだけお勉強ができて、大人になると忘れて無知になる、というのではどうしようもない。
脱線しましたが、ともあれ、バトラーにちょっと「やられて」しまいました。
本当は次に他の本を読むことにしていたのですが、予定を変えて次は、彼女の「主著」とも言われる…
『ジェンダー・トラブル』を読んでみようと…いや、もう読み始めています。
これも難解ですけれど、今のところめちゃめちゃ面白いです。読了したらブログに書きます。
というわけで、前置きばかり長くなりましたが、本のレビューです。
この本は、社会の中でマイノリティとされている、あらゆる人間…
女性、有色人種、LGBT等、移民、少数民族などなど、あらゆる「周縁的」人々が…
国家権力や「マジョリティ」から受けている暴力…
(物理的暴力だけでなく、精神的暴力、政治的、社会的、制度的暴力などを含めてです)
それについて、鋭く分析、批判を加えるとともに…
どうやってそれに対抗するか、暴力を解体して行くか、ということについて論じたものです。
さらには人間だけでなく、他の生物や環境も含めてあらゆるものに加えられている暴力を…
批判、解体して行くことを求めています。
ここでバトラーが提示してい原則が、タイトルにもある「非暴力」による抵抗の実践なのですが…
「非暴力」という言葉から一般の人が連想するような、甘っちょろい、ただの理想主義的な論ではなく…
彼女が実践を求めているのは、非常に厳しく、また暴力に暴力をもって対抗するより恐らく勇気の要る…
「攻撃的非暴力」あるいは「戦闘的平和主義」ともいうべき内容のものです。
ここでいうのは、暴力=個人的なものだけではなく、軍事侵攻などの大規模な暴力も含めて、ですが。
たとえば、それが「正当化」される場面について、バトラーは問題にしています。
あなたは、暴力に賛成ですか?暴力はいいことだと思いますか?
多くの人は「原則として暴力はいけないことだ」「暴力に訴えるのは、本来悪だ」と思っているのでは?
(もちろんそうでない、根っから暴力主義者な人もいるでしょうが)
ただ同時に、多くの人が、暴力禁止には「例外がある」と思っているのではないでしょうか。
誰もが考える、例外的に正当化される暴力といえば「自己防衛」のための暴力でしょう。
他者から暴力を加えられて、自己の安全が脅かされた場合、緊急避難的にそれを守るための暴力です。
では、この場合の守るべき「自己」とは何のことでしょうか。
「私」個人だけでしょうか?
おそらくそうではないでしょう。
私の家族や愛する人、私が所属する地域共同体を守ることも「自己防衛」(自衛)になるはずです。
こうして「自己」の範囲は拡大して行き、国家も、防衛すべき、拡大された「自己」になります。
ただ、現代の社会関係の中では「自己」の拡大は、国家・国土の中だけに留まりません。
政治的・軍事的「同盟国」まで、守るべき「私たち」の中に、今や入れられているのが現実です。
さらには同盟国同士の関係性の中で、他国の経済的、政治的利害といったものまでが、いまや…
自衛すべきものの中に入れられてしまっています。
我々の国においても、いまや「集団的自衛権」なんていうものが認められるに至っています。
現に、自衛隊が遠いイラクや西インド洋にまで出向いて行って、活動してきましたよね。
「戦闘地域には行かない」という名目でありましたけれど…
結果的に、現地で戦闘状態に巻き込まれ、そしてそのことが隠蔽されて…
「サマワ日報改ざん事件」などというものにまで発展してしまいました。
その状況で、自衛隊にだけ武力行使が許されないのはおかしい、ということにもなりましたよね?
遠い遠い中東地域で、現地の「治安維持」のために戦闘すること=暴力を行使することまでが…
今日では「自衛行為」と認められるべきだ、ということになって来ています。
何百キロ、どうかすると千キロ以上離れた国での「治安維持活動」で、暴力を行使すること…
直接には自国民に危害の及ばないことに関して、同盟国側の「正義」のために、暴力を行使するのが…
本当に正当化される「自衛行為」の範囲なのでしょうか?
そうなると、正当な「自己防衛」の暴力を行使する際の「自己」というのは…
どんどん拡大し、この地球上のすべての場所での、あらゆる人々が含まれ得ることになります。
しかも、何が正義か分からない中での、政治的な「同盟者の利害」を守ることが「自己防衛」とされる。
こうなると「例外」だったはずの暴力が許される範囲は、解釈次第で、際限なく拡がり得るわけで。
しかも私たちは、会ったこともない人々、自ら選択したわけではない勢力と知らないうちに結び付けられ…
彼らと共同して、これまた自ら選択したわけでもない「何か」を守るために、暴力行使をする…
そういう仕組みの中に、否応なく、組み込まれてしまっていることになるのです。
何なら、アメリカ人が勝手に決めた「正義」の名のもとに、アメリカ人の「敵」と殺し合う。
その「人殺し」が正しいかどうか、考えたり議論する暇などあろうはずもなく、加担する。
そういう道に、私たちは入ってしまっているのです。
みんな直視したがらないけれど。
だから、安倍政権下で強行採決された「集団的自衛権」を認める法案は、絶対通してはいけなかった。
さすがにあれだけは駄目だった。
私もできる限り阻止するために闘いましたけれど、ほとんどの日本国民は無関心で、冷たかった。
自分が人殺しの仲間に入ろうが何だろうが、直接目に見えなければ、自ら手を汚さなければ…
ぜんぜん構わない。要するに、そういうことだったんですよ。
みんな、無自覚な冷酷さを、平気で受け入れていた。実に恐ろしいことです。
無自覚に、無表情どころか毎日ニコニコ笑顔で暮らしながら、そんな冷酷なことを了承していたんです。
この時代にあっては「死んだら悲しい、かわいそうな人たち」と…
「死んでも全然かまわない、かわいそうでも何でもない人たち」とに、人間が分けられてしまっている。
それを、バトラーの場合は「哀悼可能」な人々と「哀悼不可能」な人々、という語句で表現しています。
「哀悼可能性」を、この世界に住む人に差別的に分配して…
結果暴力に例外規定を設けて「哀悼不可能な人」になら行使して良い、という論理は…
絶対に破綻をきたすのです。
だから、歯を食いしばって、究極的には死の危険を冒してでも「非暴力」の闘いをするのだと。
別に罪を犯したわけではないけれど、この人間は「哀悼不可能」な種類の人間だと…
さしたる根拠もなく、勝手に決定する権力システムが存在する。
彼らを倒すことを目的に、暴力によらない手段で、頑固に、執拗に抵抗する。
(なぜなら暴力の正当化には、先ほども説明したように、際限がなくなるからです)
それが、この本の中でバトラーの言う「攻撃的非暴力」というものなのです。
別の言葉で「戦闘的平和主義」とも。
どうして人間や人間集団を「哀悼可能」と「哀悼不可能」に分けてはいけないのか。
なぜなら「私」個人も、「私たち」という集団も…
この世界にある限り、決して孤立して存在しているわけではないからです。
全ては「相互依存的」な関係性のバランスの中で存在しているのであって…
一見「哀悼不可能」な他者、何なら「敵」と見えるような個人や集団も…
(敵に見えるのは、政治的に「そう思うよう誘導されているから」です)
我々と深く依存し合って存在しているのであって、それを破壊するということは、とりもなおさず…
結局、自からをも破壊する、自殺的行為だからです。
そうではないと思っている愚か者どもが、その愚かな考えに、多くの人々を扇動して巻き込んでいますが。
バトラーの思考の射程は、人間界を超えて、この地球の存在すべてにまで向けられます。
ここの文は比較的平易なので、引用することにします。
暴力的行動からの防衛においてしばしば用いられる自己保存という政治的概念は、自己の保存が地球の保存を必要としており、私たちは自己維持的存在としての地球の「中」にいるのではなく、地球が存続する限りにおいてしか存続しない、という点を考慮していない。
人間にとって当てはまることは、生の持続のために無害な土壌ときれいな水を必要とする全ての生物にとっても当てはまる。
もし私たちの誰かが生存し、繁栄し、良い生を送るべきだとすれば、それは他者たちと共に生きられた生であろうし、そうした他者なしではいかなる生も存在しない生であろう。
ジュディス・バトラーは、哲学者、思想家としてだけでなく…
有名なフェミニズムの運動家としても知られています。
ただ、一部のフェミニストが、トランスジェンダー女性排除の論理を過激に主張するのに対して…
彼女は強く抗議しています。
またLGBTの権利保障についての発言や活動も盛んにしています。そして彼女自身もレズビアンです。
この前に読んだ、ルース・ベネディクトもレズビアンでしたけれど…
彼女の時代には、おそらくそれが原因で、学問の世界からは受け入れられませんでした。
なので、仕方なく国家の情報戦という部門に協力して行った一面があったのです。
しかしジュディス・バトラーの場合は堂々と同性愛を公言しながら、UCバークレーという超一流大学で…
普通に教鞭をとって、また世界から非常に尊敬を集めている、高名な学者です。
時代は進んだということでしょうね。
日本は、ジェンダー問題についても、セクシャルマイノリティ問題についても、性暴力問題についても…
「西側自由主義諸国」の一員を自称しているのが、もはや許されなくなっているぐらいに遅れています。
マスメディアが海外からの、現政権が好まない多くの情報や…
日本人が外国からどう「見られているか」を、事実上「遮断している」と言っても過言でないほどに…
不可視なものにしている今。
それに乗せられて、国民の多くも「外」に関心を持たず「井の中の蛙」を自ら選んでいるかのような今。
このままでは、日本がどんどん他国の状況からおいて行かれるばかりでなく…
しまいには「野蛮で旧弊な感覚の国民」として、見離されかねないのではないかと危惧します。
そんな中、バトラーの言説は、世界から「見捨てられる」ことを避けたい私たちにとって…
特に注目に値するのではないでしょうか。
また、彼女はユダヤ人ですが、パレスチナ問題に関しては、イスラエルの暴政や暴力に…
一貫して反対、抗議し、パレスチナ人と連帯する姿勢を貫いてきました。
いずれ、その関係の著書も読んでみようかと思っています。
次の読書も楽しみです。