昨日のクローズアップ現代を見ていて「ドーピング問題」が取り上げられていた。
この事と、自然界には平等は存在しないという仮説と組み合わせて考えたとき、一つの倫理的な問題提起が浮かび上がってきた。
「ナチュラリスト」と「文明人」という考えだ。
例えば、遺伝子操作などが上げられる。元々、自然界に存在しない物を人が合成すると、社会問題を引き起こす可能性がある為だ。
原子力も同様であろう。原子核の持つ潜在的なエネルギーを引き出している点において自然界(地球上)に存在しない物だ。
しかし、プラスチック製品や合成繊維といったものが、動植物を殺傷しなくてもそれと同等以上の能力を引き出している点において、優れていると言える。効率や能率と言う点でも非常に競争力が高いのが特徴だ。
一方、ナチュラリストと言うと、田舎で古い木造住宅を再生して、殆ど自給自足の生活をしている人達を思い浮かべる。
彼らは、焚き木を拾ってきたり、薪を割ったりしながら食事や暖を取り、草木染の木綿やシルクの自然の衣類を着用し、食器も瀬戸物や漆器類だ。
殆ど、石油製品を使わないし、遺伝子組み換えや、合成うまみ成分も使わない。電子レンジすら使わないかもしれない。
彼らが原子力発電そのものを否定する事もなんとなく分かる。
しかし、世の中の人達全員にそういう生活を強いるというのが理解できない。
単なるエゴか倫理観に支配された宗教マニアであろう。
自分へのご褒美とかそういう類のものだ。自己中心的なのだ。
もし、彼らが全面的に正しいとすれば、現在も天動説がまかり通っていたであろう。彼らに科学は不必要で邪険なものであるからだ。それは、それで一つだが、弱肉強食の弱者の側である事は確かだ。数億年前の生きた化石と呼ばれる生物は海中の奥深くの光が全く届かない暗黒の世界で現在も生き続けている。完全に古い思想が残らないという訳ではないだろうがメインではない。
要するに他の、より強力な民族に抹殺されて存続されないのだ。
現実世界の「ドーピング問題」に戻って考え直してみると、平等は存在しない弱肉強食の自由競争社会だ。より優れたものだけが生き残る。まさにそれだけで、他は全く無い社会である。常に戦いによって弱者は敗退し、ことごとく消え去っていく。
しかし、この国際競技で他者より有利に展開したいとする考え方は、生まれ持った資質とその後の精神力と努力によって報われるべきだとする思想と相反する。勝つ事に力点が置かれ過ぎている為だろう。
その特殊な戦場と化した社会においては強い事は一つの大事な競争原理の一つであろうが、なにしろ自由であるのが本来の姿だ。繁栄したものは必ず没落する運命にある。永遠に繁栄し続ける事はありえない。
ここに問題がある。自由競争の社会は持続性が欠落しているのだ。
自由社会は常に新旧が入れ替わった状態、この状態が自然であり、それがそのままそれが持続している。強者が固定化する事は殆どない。ところが、それが時にまかり通って大きな戦いに発展する。
この点に限って見れば、ナチュラリストの言い分に分がある。
だから、何でもかんでも「再生可能」とか「持続可能」とかいう訳の分からない単語が連発されるのであろう。
なんで頑なに原発の再稼動を否定するのかがなんとなく、こういった事から伝わってくる。一つの流行なのだ。
しかし、ナチュラリスト達は現在の日本が、いや世界が第二次世界大戦前と殆ど同じような罠にはまりつつ有る事を軽視しすぎている。確かに山の中に住んでいるから第二次世界大戦の時も大して被害が無かったのかもしれないが、彼らが原因の一翼を荷っていることは確かだ。
二度と戦争はしませんと国際的に約束したのに、戦争にならざるを得ない状況を演出するのかいかがなものだろうか?
全員をナチュラリストにしようと言う思惑はかえって石油や石油製品が無いと生活できない人達を窮地に追い込み暴動を生む。
その暴動はやがて自国を飛び出し周辺国へと波及していくのだ。
さらに、このナチュラリスト達の間に混じって似非ナチュラリストがいるのも注目される。利権に溺れた大学教授や国家公務員だ。まるで、反体制派に武器を影で供給するかのごとく、事ある度にマスコミや政府に風評情報を流して支援しているのだ。立場を利用して自らの利権を守ろうとしているのだろうが、こういった行為こそまさに国の財政難を自ら演出している様なものだ。万が一、財政破綻したら間違いなく彼らには無給で働いてもらいたい。
この事と、自然界には平等は存在しないという仮説と組み合わせて考えたとき、一つの倫理的な問題提起が浮かび上がってきた。
「ナチュラリスト」と「文明人」という考えだ。
例えば、遺伝子操作などが上げられる。元々、自然界に存在しない物を人が合成すると、社会問題を引き起こす可能性がある為だ。
原子力も同様であろう。原子核の持つ潜在的なエネルギーを引き出している点において自然界(地球上)に存在しない物だ。
しかし、プラスチック製品や合成繊維といったものが、動植物を殺傷しなくてもそれと同等以上の能力を引き出している点において、優れていると言える。効率や能率と言う点でも非常に競争力が高いのが特徴だ。
一方、ナチュラリストと言うと、田舎で古い木造住宅を再生して、殆ど自給自足の生活をしている人達を思い浮かべる。
彼らは、焚き木を拾ってきたり、薪を割ったりしながら食事や暖を取り、草木染の木綿やシルクの自然の衣類を着用し、食器も瀬戸物や漆器類だ。
殆ど、石油製品を使わないし、遺伝子組み換えや、合成うまみ成分も使わない。電子レンジすら使わないかもしれない。
彼らが原子力発電そのものを否定する事もなんとなく分かる。
しかし、世の中の人達全員にそういう生活を強いるというのが理解できない。
単なるエゴか倫理観に支配された宗教マニアであろう。
自分へのご褒美とかそういう類のものだ。自己中心的なのだ。
もし、彼らが全面的に正しいとすれば、現在も天動説がまかり通っていたであろう。彼らに科学は不必要で邪険なものであるからだ。それは、それで一つだが、弱肉強食の弱者の側である事は確かだ。数億年前の生きた化石と呼ばれる生物は海中の奥深くの光が全く届かない暗黒の世界で現在も生き続けている。完全に古い思想が残らないという訳ではないだろうがメインではない。
要するに他の、より強力な民族に抹殺されて存続されないのだ。
現実世界の「ドーピング問題」に戻って考え直してみると、平等は存在しない弱肉強食の自由競争社会だ。より優れたものだけが生き残る。まさにそれだけで、他は全く無い社会である。常に戦いによって弱者は敗退し、ことごとく消え去っていく。
しかし、この国際競技で他者より有利に展開したいとする考え方は、生まれ持った資質とその後の精神力と努力によって報われるべきだとする思想と相反する。勝つ事に力点が置かれ過ぎている為だろう。
その特殊な戦場と化した社会においては強い事は一つの大事な競争原理の一つであろうが、なにしろ自由であるのが本来の姿だ。繁栄したものは必ず没落する運命にある。永遠に繁栄し続ける事はありえない。
ここに問題がある。自由競争の社会は持続性が欠落しているのだ。
自由社会は常に新旧が入れ替わった状態、この状態が自然であり、それがそのままそれが持続している。強者が固定化する事は殆どない。ところが、それが時にまかり通って大きな戦いに発展する。
この点に限って見れば、ナチュラリストの言い分に分がある。
だから、何でもかんでも「再生可能」とか「持続可能」とかいう訳の分からない単語が連発されるのであろう。
なんで頑なに原発の再稼動を否定するのかがなんとなく、こういった事から伝わってくる。一つの流行なのだ。
しかし、ナチュラリスト達は現在の日本が、いや世界が第二次世界大戦前と殆ど同じような罠にはまりつつ有る事を軽視しすぎている。確かに山の中に住んでいるから第二次世界大戦の時も大して被害が無かったのかもしれないが、彼らが原因の一翼を荷っていることは確かだ。
二度と戦争はしませんと国際的に約束したのに、戦争にならざるを得ない状況を演出するのかいかがなものだろうか?
全員をナチュラリストにしようと言う思惑はかえって石油や石油製品が無いと生活できない人達を窮地に追い込み暴動を生む。
その暴動はやがて自国を飛び出し周辺国へと波及していくのだ。
さらに、このナチュラリスト達の間に混じって似非ナチュラリストがいるのも注目される。利権に溺れた大学教授や国家公務員だ。まるで、反体制派に武器を影で供給するかのごとく、事ある度にマスコミや政府に風評情報を流して支援しているのだ。立場を利用して自らの利権を守ろうとしているのだろうが、こういった行為こそまさに国の財政難を自ら演出している様なものだ。万が一、財政破綻したら間違いなく彼らには無給で働いてもらいたい。