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ナチュラリスト

2014-01-21 18:21:24 | 日記
昨日のクローズアップ現代を見ていて「ドーピング問題」が取り上げられていた。
この事と、自然界には平等は存在しないという仮説と組み合わせて考えたとき、一つの倫理的な問題提起が浮かび上がってきた。
「ナチュラリスト」と「文明人」という考えだ。
例えば、遺伝子操作などが上げられる。元々、自然界に存在しない物を人が合成すると、社会問題を引き起こす可能性がある為だ。
原子力も同様であろう。原子核の持つ潜在的なエネルギーを引き出している点において自然界(地球上)に存在しない物だ。
しかし、プラスチック製品や合成繊維といったものが、動植物を殺傷しなくてもそれと同等以上の能力を引き出している点において、優れていると言える。効率や能率と言う点でも非常に競争力が高いのが特徴だ。

一方、ナチュラリストと言うと、田舎で古い木造住宅を再生して、殆ど自給自足の生活をしている人達を思い浮かべる。
彼らは、焚き木を拾ってきたり、薪を割ったりしながら食事や暖を取り、草木染の木綿やシルクの自然の衣類を着用し、食器も瀬戸物や漆器類だ。
殆ど、石油製品を使わないし、遺伝子組み換えや、合成うまみ成分も使わない。電子レンジすら使わないかもしれない。
彼らが原子力発電そのものを否定する事もなんとなく分かる。
しかし、世の中の人達全員にそういう生活を強いるというのが理解できない。
単なるエゴか倫理観に支配された宗教マニアであろう。
自分へのご褒美とかそういう類のものだ。自己中心的なのだ。
もし、彼らが全面的に正しいとすれば、現在も天動説がまかり通っていたであろう。彼らに科学は不必要で邪険なものであるからだ。それは、それで一つだが、弱肉強食の弱者の側である事は確かだ。数億年前の生きた化石と呼ばれる生物は海中の奥深くの光が全く届かない暗黒の世界で現在も生き続けている。完全に古い思想が残らないという訳ではないだろうがメインではない。
要するに他の、より強力な民族に抹殺されて存続されないのだ。

現実世界の「ドーピング問題」に戻って考え直してみると、平等は存在しない弱肉強食の自由競争社会だ。より優れたものだけが生き残る。まさにそれだけで、他は全く無い社会である。常に戦いによって弱者は敗退し、ことごとく消え去っていく。
しかし、この国際競技で他者より有利に展開したいとする考え方は、生まれ持った資質とその後の精神力と努力によって報われるべきだとする思想と相反する。勝つ事に力点が置かれ過ぎている為だろう。
その特殊な戦場と化した社会においては強い事は一つの大事な競争原理の一つであろうが、なにしろ自由であるのが本来の姿だ。繁栄したものは必ず没落する運命にある。永遠に繁栄し続ける事はありえない。
ここに問題がある。自由競争の社会は持続性が欠落しているのだ。
自由社会は常に新旧が入れ替わった状態、この状態が自然であり、それがそのままそれが持続している。強者が固定化する事は殆どない。ところが、それが時にまかり通って大きな戦いに発展する。
この点に限って見れば、ナチュラリストの言い分に分がある。
だから、何でもかんでも「再生可能」とか「持続可能」とかいう訳の分からない単語が連発されるのであろう。
なんで頑なに原発の再稼動を否定するのかがなんとなく、こういった事から伝わってくる。一つの流行なのだ。

しかし、ナチュラリスト達は現在の日本が、いや世界が第二次世界大戦前と殆ど同じような罠にはまりつつ有る事を軽視しすぎている。確かに山の中に住んでいるから第二次世界大戦の時も大して被害が無かったのかもしれないが、彼らが原因の一翼を荷っていることは確かだ。
二度と戦争はしませんと国際的に約束したのに、戦争にならざるを得ない状況を演出するのかいかがなものだろうか?
全員をナチュラリストにしようと言う思惑はかえって石油や石油製品が無いと生活できない人達を窮地に追い込み暴動を生む。
その暴動はやがて自国を飛び出し周辺国へと波及していくのだ。

さらに、このナチュラリスト達の間に混じって似非ナチュラリストがいるのも注目される。利権に溺れた大学教授や国家公務員だ。まるで、反体制派に武器を影で供給するかのごとく、事ある度にマスコミや政府に風評情報を流して支援しているのだ。立場を利用して自らの利権を守ろうとしているのだろうが、こういった行為こそまさに国の財政難を自ら演出している様なものだ。万が一、財政破綻したら間違いなく彼らには無給で働いてもらいたい。

自由と平等はやはり水と油

2014-01-17 19:45:56 | 日記
オレオレ詐欺のニュースを見ていたら、自由と平等が同じ物であるという考え方はやはり間違っていると気がついた。
オレオレ詐欺の犯人は自由は求めていても平等は求めていない。

戦争下では、自由に戦う事は出来るが、武力が平等ではない。ベトナム戦争では、たまたま有利な状況を形成する事が出来ただけで平等とは言えない。

社会主義社会での平等の肯定と自由の否定は、結婚して子供が出来た時に、子供が成人するまで負う養育義務によって自由が必然的に損なわれる問題の解決を計った結果ではないだろうか。
自由な環境では子供を育てるか育てないかの判断も自由であるべきで、自然動物の社会ではその選択が常に自由だ。
民主主義下では、子供の人権が重視されると親の自由に対する人権が損なわれ、不平等感が強まる。

なぜ自由と平等が同じ物であると感じてしまったかは、野生生物が自由なだけでなく平等である様に見えたからだ。一見平等の様に見える時があるが平等ではない。
弱肉強食であり、自然淘汰が繰り返されている以上、自然界に平等は存在しない。

自由と平等は同じ?

2014-01-17 09:20:37 | 日記
政治的な立場から自由と平等を水と油に例えてみたが、地球環境から見た生物的な視点で見ると、自由と平等は同じ物である可能性がある。
全く普通の考え方に戻ってしまうが、それを政治的な視点に当てはめ直してみると、右翼は自由と平等を肯定し、左翼は自由と平等を両方共否定している事になる。
これはどう解釈するか。
仮説としては、人間に限って地球環境を自身の都合に合わせて改造する事が可能なので、自由と平等を両方共奪われなければ成立しないという知見ではないだろうか。
完全に自由な環境、例えば戦争下において平等であるかどうかだが、確かにそこに格差は存在しない。
ベトナム戦争では、フランスやアメリカを撃退する事も出来たが、これは一つの平等を示す事例ではないだろうか。
もっと小さな視点に立てば、結婚して子供を成人させる義務を負った人間は自由と平等を奪われている。
しかし、動物社会では、環境に適応するのが精一杯で格差が発生している余裕がない。自身が育てている未成熟な生命に生きる権利は元々存在しないので、環境によっては養育をいつでも放棄出来る。従って自由と平等は、常に成立している。

家康の座右の銘

2014-01-11 04:02:29 | 日記
「勝つ事ばかりを知って負くる事を知らざれば害その身に至る」
これは思いやりの心を失うなという意味が含まれている様に思う。
自由な競争社会では時に思いやりが完全に失われる事がある。

野生生物の自然淘汰と同じ法則の上に生きれば当然そうなる。
しかし、戦い疲れた老人達が口々に唱えるのが、この思いやりの心だ。
何とも情けない!と糾弾されるべき物なのだ。
散々、思いやりの欠落した行動をとっておきながら、いざ年取って自分の立場が弱まると手のひらを返した様な発言をする。
本当にそんな言葉に耳を傾ける価値があるのだろうか?

少子高齢化のもう一つの欠点がここにあるのだろう。
正しく老害だ。

競争は益々激化している。
食うか食われるかだ。
敗者に与えられるものは何か?
それは、戦争による淘汰だ。

これは自由競争の宿命だ。
だから敗者になる事を恐れるな。敗者の存在こそ大切にするべきであり、敗者を嘲笑してはならない。
人生において敗者になる確率の方がよっぽど高いのだ。
家康の言いたいのはこういう事ではないだろうか。