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法蔵寺 (愛知県岡崎市本宿町)
松平広忠の死
天文十八年 三月、岩松八弥に襲われて以来、体調の優れぬ松平広忠が日増しに悪化していき、三月六日に二十四歳で亡くなられた。
まだ三十歳にも満たず、先代 清康に次ぐ相次ぐ不幸に一門、御家人らも嘆き悲しまぬ者はいなかった。
しかし、織田信秀が昨年来、岡崎を攻め込む様子を崩さなかったので、再び今川へ加勢を要請した。
御家人たちは広忠逝去が織田方へ伝わってしまうことを恐れ、深く帰依していた法蔵寺の教翁和尚と内々に申し合わせて、岡崎の大林寺において密かに法要を行い、納見ガ原に内葬したのち、今川へその旨を告げ、大樹寺において葬礼を行い、納見ガ原の地に一寺を建立、松応寺とした。
今川義元は、主の亡くなられた三河が織田方になびくことを案じ、駿府において大軍を起こして総大将を太原雪斎和尚として西上し、岡崎の兵を加えて二万騎余りで織田信秀の庶子、信広が籠る安祥城を攻め城は落とせなかったが、秋に再度 安祥城を襲い、城を守る信広を生け捕った。
この戦いに織田方は、家督を継いだ信長が救援のために出陣したが、安祥城落城の報を聞いて引き返そうとしたが、今川の使者が信長に人質交換を申し出たので信長も応じた。
日程も慌ただしく取り決め、十一月十日に笠寺まで竹千代君を送り、今川方から岡崎譜代の大久保忠俊が信広を護送してきて落ち合い、竹千代君を出迎えて受け取り、信広を引き渡した。
竹千代君の二年余りの尾張での人質は終わった。