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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 10 ‐ 1 静岡県 掛川市 1



掛川城
静岡県掛川市掛川


掛川城を街のシンボルとする地方都市〜掛川市は、基幹産業は茶を主力とする農業ですが、昭和時代にNEC、資生堂、YAMAHA、SUZUKI、パナソニック、ユニ・チャームといった大手企業が次々と進出して企業城下町の側面もあり、飛躍的に人口が増加しました。


掛川城
街のシンボリックキャッスルである掛川城は、戦国時代前期の1497年、明応6年頃に駿河の守護大名 今川義忠が重臣 朝比奈泰煕(やすひろ)に遠州(遠江)支配の拠点として現在の天守閣から東部にある子角山(ねずみ山)に築かせました。


足利将軍家の縁戚である駿河守護の今川氏の領国経営は拡大化し、やがて子角山の掛川城では手狭となり、西部の龍頭山に新たな掛川城が築城されました。


今川時代の掛川城は譜代重臣の朝比奈氏が子孫代々務め、孫の朝比奈泰朝が城主のとき、桶狭間の戦いで主君、今川義元が討死すると今川家は弱体化、家臣の離反が相次ぐ中でも朝比奈氏は忠誠を尽くし、主君の今川氏真が甲斐 武田信玄に駿府館を追われる格好で掛川城に逃げ込みます。

掛川城は信玄と今川領を切り取ることを決めていた徳川家康に包囲されるも、城主、朝比奈以下、頑強に抵抗し続け、半年もの間、籠城に持ちこたえます。

最後は主君、今川氏真の身の安全の保障と城主、朝比奈以下の兵の助命を徳川家康が約束したことで今川氏真は投降し、妻の実家である相模、北条氏へ身を寄せる決断を下し、大名である今川氏は掛川城で終焉を迎えました。

その後、徳川譜代の重臣が城主を務め、要衝、高天神城をめぐる武田信玄との熾烈な戦いの最前線として重要視されました。











豊臣秀吉の天下統一により、徳川家康が江戸に移封となると、秀吉は同じ尾張生まれで自分の初期の与力であった山内一豊を掛川城主に命じ、関東へ封じた家康への押さえとして期待しました。





山内一豊 騎馬像

山内一豊
尾張、黒田城で岩倉織田氏の家老 山内盛豊の次男として生まれ、岩倉織田氏が織田信長に滅ぼされた際に父と兄が討死し、流浪の身となるも、秀吉の与力として仕え、秀吉の最古参の家臣として地道に働くことで信頼され、長浜城主を経て掛川城主となる。後に土佐20万石の太守。賢夫人、千代との数々のエピソードが有名。


 

山内一豊は龍頭山に天守閣のある城郭を築城し、同時に城下町を勢力的に整備し、今日の城下町〜掛川の礎を築きました。

秀吉の没後、豊臣家は吏僚家臣と武断家臣による争いから二つに分断し、山内一豊は大老の徳川家康と誼を通じ、家康が上杉征伐のため江戸へ下る際には領内の小夜の中山に茶亭を建立して家康を饗します。

関ヶ原の戦いに際して、山内一豊は掛川城を提供して家康の信頼を最大限得ることに成功し、戦後恩賞として、土佐20万石という破格の大加増を獲ることとなりました。


一豊は土佐の河中山(こうち山)に高智山城(後の高知城)を築城しますが、これは心血を注いで築いた掛川城を模して築城しました。



霧吹き井戸
徳川家康に包囲された際、井戸から霧が吹き出して目眩ましとなり、落城を免れたとされる井戸。



大河ドラマ〜功名が辻 で使用された幟





太鼓櫓

山内一豊、千代の夫婦と黄金十枚の馬エピソードモデルの馬







天守からの眺め









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