可睡斎
静岡県袋井市久能
この可睡斎、前身は室町時代の1401年 応永8年に遠州地方で寺院の約八割を誇る曹洞宗隆盛の祖、如仲天闇(じょちゅうてんぎん)上人が東陽軒として創建しました。
やがて戦国時代になり、住持が11代、仙麟等膳のとき、三河から遠州地方まで支配を広げた徳川家康が等膳を浜松城に招きます。
山門
この等膳和尚、徳川家康が駿河、今川氏の人質時代だった頃、臨済寺で手習いを受けていた際に多忙な太原雪斎の代わりに度々教えを受けていた縁がありました。
また、密かに故郷への想いを募らせた家康を籠に隠して海路で岡崎まで運び、短くも、つかの間の帰郷を実現させた恩人でもありました。
可睡斎 法堂
家康が懐かしい思い出話を語る座中で、等膳はすやすや居眠りを始めたところ、重臣たちが
大殿の御前なるぞ、けしからん!とイキリ立つも、〜おお、等膳和尚、わしのことをまるで愛児の如し。故に安心して睡る。その親愛の情を喜ぶや。和尚睡る(眠る)が可し 睡る可し(ねむるべし)」と笑って許したと言われています。
この様子を見ていた重臣達が、等膳和尚のことを〜可睡和尚様(大殿の前で眠ることを許された和尚)として敬愛して呼ぶ様になり、可睡和尚は駕籠登城を許され、やがて東陽軒は可睡斎と寺号も改まりました。
こうした徳川家康との深い絆が縁となり、後の可睡斉の代々の住持は遠江、駿河、三河、伊豆の四カ国の曹洞宗寺院の組織取締役である総録を仰せ付けられ、10万石待遇という破格の役割りを受けました。
秋葉総本殿
井伊直勝(徳川四天王 井伊直政 長男)墓所