掛川城御殿
静岡県掛川市掛川
掛川城天守からは御殿が良く見下ろせます。
天守の城が戦時、戦うための施設であることは重要ですが、大名、藩主において最も大切なことは、平時において如何に領国を安定した経営を行うか…でした。
御殿は儀式、幕府からの公式な対面など、式典や藩主、重臣らによる通常の政(まつりごと)といった政務を行う藩庁(現在で例えば県庁の様な地方行政)の役割りを果たしました。
掛川城御殿は、江戸時代も幕末に入るペリー来航(嘉永6年)の翌年、1854年、安政元年に発生した安政東海大地震により倒壊した後に再建された七つの棟からなる書院造りの建築様式で、各部屋大小の差はあれど、畳を敷き詰め、襖により仕切られています。
玄関
三の間
報刻の大太鼓
江戸時代幕末期の安政時代に城下に刻限の時を知らせる時報の役割りを果たした。
二の間
二の間
城主と対面する重役が控える間
御書院上の間
対面、儀式が行なわれる公式儀礼の間
小書院
藩主の執務部屋
長囲炉裏の間
藩主の囲炉裏部屋
この部屋には現在、俳優の杉良太郎さんにより寄贈された元掛川藩主、26代城主〜松平忠喬(ただたか)、30代城主〜太田資俊の甲冑の数々が展示されています。
〜寄贈に寄せて〜杉良太郎さんのメッセージ
「時代劇役者としてシンボルになるものがほしい」… そこで手に入れたのが太田資俊さんが所有していた紺裾濃縅の綺麗な具足でした。
しかし、その具足を飾った日本間は、その日を境に空気が重たく、「ゾクッ」と鳥肌の立つ気味の悪さがありました。
ある日、親友のお母様が 「あなたの誕生日に自分の家の美術倉庫で眠っていた尼崎城主 松平 (桜井) 忠喬の緋威の具足を」とくださいました。
かなり傷んでいたのですが補修し、太田資俊さんの横に並べ、飾りました。 すると不思議なことに重苦しい空気が晴れ、すがすがしい雰囲
気に一変したのです。
「不思議だな」と思っていたところ、その後の調べてみると、実はお二人とも掛川の城主としてお務めになっていた方だったということが分かったのです。
同じお城にお務めになっていた方が300年以上たって、私のところにおられるということに縁と言いますか、運命的な出会いを感じ、30年以上にわたって私はお二人を友人として、また守り本尊のように接して参りました。
しかし、 松平 (桜井) 忠喬さんの緋威は糸の劣化がすすみ、放っておくわけにはいかなくなり、この度、お二人のゆかりの地 掛川へお戻りになるのがよいのではないかと.........。
私にとってお二人との別れは、とても悲しく、寂しく、耐え難いものです。 身を切られるような思いを心に押し込めてお別れ致しました。
いつの世までも、美しいお姿のままで、 掛川が平和でありますよう見守ってくださることを信じております。
平成29年3月28日 杉良太郎
先月、御殿の隣、二の丸茶室で開催された将棋の王将戦を行った棋士の藤井聡太さんが来場し、雲外蒼天〜の四文字熟語を書に認めました。
雲外蒼天…どんな困難が待ち構えようとも、努力して乗り越えれぱ、良い未来が訪れるという意味。
足軽目付の間
大目付の間
足軽目付の間
大目付の間