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日本歴史紀行

歴史紀行 33  菅原道真 公像









菅原道真 公像


東京都八王子市初沢 みころも公園 高尾天神社


日本は年が明けると、入試シーズンとなり、高校や大学、それに就職活動が本格的に動き出し、受験生や親御さんなどには特に篤い崇敬を受けるのが学問の神様として知られる菅原道真公を祭神とする全国に大小 一万にも及ぶ天満宮、天神社てす。

平安の時代、京の都で活躍し、九州 大宰府で怨念を抱いて逝った道真公と、像の建立された八王子市。

関わりは、天満宮を信仰した大正天皇にお有りになりました。

大正天皇が被葬された八王子の御陵に向かって立つ道真公像が建立されたのでした。



菅原道真公


古代 大和政権の時代から王家に任えていた朝臣の菅原氏は、道真の祖父の古人が学者として芽を出し、孫の道真は、わずか11歳にして漢詩を創るなど、頭角を現し、その実力で朝廷内の世界でのし上がりました。

学識もあり仕事でも手腕を発揮してきた道真はやがて宇多天皇の目にとまり、蔵人頭に引き立てられ、やがて次代の醍醐天皇にも信認篤く、ついには右大臣まで昇進します。

道真の人生がこのまま平穏無事で終わっていたなら、ただ、学問の神様として祀られたのみでしょうが、道真には怨霊として人々に怖れられた一面もありました。

順風に思えた道真の運命を突き落としたのは、当時、朝廷の政権に君臨していた左大臣、藤原時平でした。

時平は様々な策略と讒言で道真の陥れ、醍醐天皇も時平を信じてしまい、道真を九州、大宰府へと左遷しました。

左遷から2年が過ぎた 901年 延喜元年、道真は都への思いを強く抱きながら大宰府で亡くなりました。


道真の死後、平安京に限らず、日本中で厄災が続発します。

水害、干ばつによる飢饉に、疫病に庶民は苦しみ、さらに朝廷の貴族達にも、道真の怨霊とも考えさせる様な事態が次々と襲います。

まず、道真を陥れた藤原時平が病であっけなく死に、時平の妹で醍醐天皇の女御が産んだ皇太子の保明親王が、また、その親王の子で、新皇太子となった慶頼親王がわずか5歳で亡くなります。

それだけには留まらず、時平と共に道真を陥れた源 光は狩りの途中で沼に足をとられて溺死。

さらに極めつけは、平安京清涼殿で落雷があり、大納言 藤原清貫が雷に打たれて胸を破裂させて即死するという事態が貴族達に恐怖のどん底にたたき落としました。

貴族、庶民に次々と起こる不幸に、これらは大宰府で無念の死を遂げた菅原道真の怨霊によるものだと人々は考えました。

こうして、道真の怨霊を鎮めるべく、北野天満宮が創建され、道真が眠る九州 大宰府にも勅使を送って天満宮を創建しました。

怨霊鎮護として創建されたこれらの天満宮は、学問に秀でた道真を神として祀り、やがて時代の流れと共に怨霊鎮護ということは薄れ、学問の神様として崇敬を篤め、現在に至ります。




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