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夏目吉信之碑
浜松市中区布橋
夏目吉信
夏目吉信は、1561年 永禄4年、家康独立後の三河長沢城攻略で軍功を挙げて家康の信任を得て、翌年 八幡合戦による今川勢の反抗により徳川勢が劣勢に陥ると吉信は殿(しんがり)を務めて6度に渡って今川勢の追撃を食い止めて味方を退却させ、合戦後、家康から賞されて脇差を賜りました。
ところが、1563年 永禄6年、家康は領国経営と軍費拡大により、それまで不入権により守られていた有力寺院の浄土真宗 本願寺系の上宮寺に対して兵糧米を徴収したことで、門徒らが反発して一揆を起こしました。
それに呼応する様に、熱心な一向宗徒でもある家康の家臣らが一揆勢力に加わって三河を分断する戦いが勃発します。
三河一向一揆と呼ばれるこの戦いは、約半年に渡って続き、一向宗徒であった夏目吉信は、一揆側について戦い、主君である家康に弓を引きました。
吉信は砦を築いて戦うも、やがて松平伊忠の軍勢に攻められ、砦を放棄して寺に逃げ込んで境内の蔵に隠れます。
松平伊忠は蔵を厳重に包囲し、家康の下知を求めます。
家康は伊忠を賞賛しながらも、【 蔵に籠った吉信をこのまま誅殺するのは、篭の中の鳥を殺すのと同じである。包囲を解いて助命するように。】と命じます。
伊忠は、あまりにご寛容なことよ。と呟くも、主命には逆らえず、退却しました。
吉信は予想外に助命されたことで、この様なご恩愛の深い主君に弓を引いた自分の心はなんだったのか。と自分を恥るとともに、今後は主君のために命懸けで仕えようと決心します。
吉信の命懸けの決心は、10年後の三方原の戦いに訪れます。
1572年 元亀3年 12月22日、三方原の戦いで武田信玄の大軍に野戦を挑んだ家康は大敗し、家康は馬上で脱糞するような恐怖を味わいながらも浜松城下まで逃げ込みました。
浜松城の留守居だった吉信は、櫓から家康が敗走し、なお武田の軍勢が家康を追撃してることを知り、城を飛び出しました。
吉信は、家康を逃がすために武田勢に突入し、身代わりとなって討ち死にしました。
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夏目吉信の墓
愛知県岡崎市本宿 法蔵寺
吉信ら忠臣の死に、家康は生涯の戒めとして心に刻め、幼少期を過ごした本宿の法蔵寺に墓を建立し、月命日に月拝供養する様に命じました。 吉信の子、吉次は、後に罪を犯して徳川家を出奔するも、関ヶ原の戦いの際に帰参を許されます。
吉次の子孫に文豪の夏目漱石がいます。