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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 7 ‐ 27 奈良県 奈良市 27


西大寺 東門

西大寺 本堂


西大寺 四王堂




西大寺
奈良県奈良市西大寺芝町



明日は衆議院選挙当日です。

今回取り上げた西大寺から徒歩約3分の大和西大寺駅は、二年前に安倍晋三元首相が選挙応援演説中に背後から銃撃され、暗殺された地です。




事件翌日の大和西大寺駅前



昨今の政治不信も頂点にあり、様々な意味を考えると、今は国難でもあると思います。







西大寺は奈良時代に創建されましたが、その孝謙〜称徳女帝治世は皇統存続の危機に見舞われます。


この時代は聖武帝治世後から皇統の危機という状況は違えど、国難だったといえるでしょう。



日本三大悪人〜弓削道鏡
新皇を称して関東一円で戦った平将門。
鎌倉幕府滅亡後、天皇親政の世に協力するも、後醍醐天皇が目指した建武の新政を崩壊させた足利尊氏と並び日本三大悪人の不名誉な異名を持つ弓削道鏡は皇位を狙ったとされます。


西大寺を創建させた女帝〜孝謙天皇は、自らの病気を祈願平癒した僧〜弓削道鏡を寵愛、道鏡は事もあろうか、誑かして皇位を危うく皇統を絶えさせる危機を招きました。



西大寺はその名から想像される通り、平城京を中心に、東の大寺である東大寺に対して西の大寺であることに由来します。


東大寺の創建が、聖武天皇が待望の次代の帝誕生を喜んだのも束の間、第一皇子、基王(もといおう)の早逝による菩提を弔う意味合いに加え、やがて聖武帝は国家安寧を願い、盧遮那仏〜(大仏)と大仏殿の造立を詔【みことのり】を発し、
国家事業として推し進めます。


東大寺の創建は現代にも継がれる遺産として残りましたが、聖武帝による遷都の繰り返しと創建後は大仏と大仏殿の創建を成すために莫大な費用を要した結果、下層の民には重い税を課すこととなり、やがて多くの民は困窮を極め、内裏近辺にさえ、餓死者の骸(むくろ)が横たわる事態を招きました。


聖武帝の直系男子である東宮〜基王の早逝により初の女子による皇太子となり、女帝〜となった孝謙天皇ですが、次代の淳仁天皇との不仲や、相次ぐ重臣の反乱、鎮圧、諌める臣下には下品な改名をさせて退け、自らは様々な病気に悩まされ、逃避するように弓削道鏡を用いる様になります。


宝字8年(764年)9月11日、藤原仲麻呂が反乱を企てることが発覚し、孝謙天皇(院)はその当日に反乱鎮圧を祈願し、鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願しました。


翌年の神護元年(765年)に孝謙院は重祚し、女帝〜称徳天皇となり、誓願を果たして四天王像を鋳造、安置の場として西大寺を造営しました。


東塔跡






和気清麻呂
女帝 称徳天皇の寵愛を受け、絶大な権力を持つ僧 弓削道鏡が皇位すら狙い、宇佐八幡の神託と称して皇位に就こうとしたとき、寵愛はしても、さすがに皇位を譲ることは躊躇した称徳天皇に神託を聞くことを命じられた清麻呂は、道鏡が皇位を望むことは、神霊もこれを激怒すとし、さらに【臣下が皇位に就いたこと、未だこれなし。】と声高に天皇に訴えました。


そのため,称徳女帝と道鏡の怒りを買うことになり、清麻呂は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅に流され、配流の道中、命すら狙われるも臆せず、雌伏の月日を送りました。

称徳女帝の崩御後、都に戻り桓武朝まで朝廷を支え、平安遷都を見届けた後、亡くなりました。





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