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日本歴史紀行

葵 夜話 51  【 2500 】


蓬莱橋



記事タイトルの【 2500 】…

何かといいますと…

ぼくの gooブログ開設から先程投稿の記事で2500本目とカウントされていました。

なるべく1日1本を目標に続けて参りましたが、2021年10月の開設から丸3年3カ月で、ここまで来ました。

これも普段から観て下さる皆様方のおかげで、モチベーションを下げずに来られました。


誠にありがとうございます。

引き続き、ご愛顧の程 よろしくお願いいたします。


せっかくなので、日中に参拝してきた神社の写真を載せて置きます。…普段から参拝している神社ですが…。


大頭龍神社

遠州一とも称される青銅の大鳥居

本殿

大頭龍の手水舎

ご神体山

山裾は茶畑だったのですが、レタス畑に変わってました…レタス…最近高いですからね。
石碑の碑文には徳川家達公の名前




  

井成神社


井成山

説明文
補足しますと…
この菊川という街は、明治以降は茶産地として発展しましたが、主水源である一級河川の菊川が大地より更に低地河川のために昔は水田への利用が極めて困難であるため、田畑へ利用するにも、高所で上流にあたる潮海寺地区から引く必要がありました。

永禄3年、1560年
桶狭間の戦いで敗残兵となった今川家臣の三浦刑部は武士の道を捨て、この地で隠れ住みましたが、やがて この加茂の地が水利の問題さえ解決すれば肥沃の大地になると考えました。

当時は水利問題は他の村とも戦の(きっかけ)にもなり得るデリケートな問題で、勝手気ままに堀を掘ったりして引くなど難しい問題でした。
時代は永禄から元亀、やがて天正へと時代が移ります。
領主も今川、武田、徳川へと変わっていきました。
この間、三浦刑部は狂人を装いふらふら歩いたり、凧揚げを装ったりして川裾を時間をかけて測量を続けました。
東遠州を支配する大名が変わる中、ようやく徳川家が遠州最大の要害、高天神城の武田家を追い詰め、武田家を遠州から駆逐する流れになった天正9年(1581年)、加茂村の領主から水路を掘る願いが許可されました。


三浦刑部、それに二人の息子が中心となって水路開削が続けられ、1594年、文禄3年に潮海寺村、本所村、半済村を経て加茂村まで水路が完成しました。


この時、すでに三浦刑部は病没しており、浅右衛門、勘右衛門の息子が完成させてました。

水路を獲て加茂村は肥沃の大地へと生まれ変わり、水田も耕作できる様になり、村全体で二千石の石高を獲られるまでに成長しました。

元日、菊川市の現、長谷川市長が今年の初詣に選んだのが井成神社でした。

現在の菊川市加茂地区





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