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日本歴史紀行

歴史紀行 20 ‐ 6 東大寺 戒壇院 


戒壇院 山門

戒壇堂
〜(現在は耐震工事中で拝観停止中です。この写真の撮影は2017年12月当時のものです。)


戒壇院 境内




奈良時代になり、日本に仏教かがもたらされて約200年の年月が流れました。


仏教の教えにおいて、守らなければならない掟が戒律です。

戒とは内面性の道徳規範のことで、悪事を働いたりしない、善行を行い、他者に尽くす。といったもので、人が社会で生きていく上で、現代の日本社会でも通じる考え方と言えるでしょう。

律とは、 仏教教団で守らなければならない内部の規則のようなものです。


飛鳥時代の仏教伝来後、遣隋使、遣唐使による断片的な教えは伝わっていたものの、日本では、奈良時代に入ると僧侶達への戒律を授ける権威ある戒律師を招く気運が高まりました。


733年 天平5年、遣唐使船で唐へ渡った栄叡と普照の二人の僧は、日本へ優れた戒匠を連れてくることを朝廷から託され、唐の国内を探しまわりました。

この人こそ。という戒匠に巡り合えぬまま9年余りが過ぎた頃、栄叡と普照は、唐 楊州の大雲寺において、江南一の大師と称される鑑真和上に出逢います。

鑑真は、二人の僧から伝戒の師として、日本に来てもらいたいという熱意と重要性を理解し、日本へ渡る決意を固めます。


(鑑真和上の足跡❨そくせき❩については、唐招提寺を紹介する記事の中で掘り下げます。)


753年 、天平勝宝5年、日本の求めに応じるべ
く、足掛け12年におよぶ歳月をかけ、五度の渡航失敗の末に失明してもなお日本を目指した唐の高僧、鑑真和上が九州 薩摩に上陸、日本の土を踏みました。



折しも聖武天皇の詔(みことのり)により、
東大寺の盧舎那仏(大仏)が造立され、開眼供養が行われた翌年のことでした。



754年天平勝宝6年、鑑真一行が平城京に入京すると大歓迎を受けました。



鑑真の来日の真の目的は、日本の僧らに戒律を授けるためで、まず、待ちかねた聖武天皇が東大寺大仏殿の前の土壇(戒壇)で鑑真から戒を授かりました。


戒壇院は、鑑真和上が大仏殿前で戒律を授けた土壇(戒壇)を大仏殿西部の地に移して伽藍を建立し、戒壇院としました。


建立された戒壇院には、広目天、増長天、多聞天、持国天の四天王立像が建立、安置されました。


重要な戒壇院の伽藍も、平家による南都焼き討ち、松永 三好の兵火により焼失し、現在の伽藍は江戸時代に再建されたものです。



現在、戒壇院は耐震工事中のため、拝観停止中で、再開は来年以降の予定です。









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