平氏発祥伝説地碑
三重県 津市 産品(うぶしな)忠盛塚
伊勢国(現在の三重県)
産品地区の忠盛塚と言われる この地は、平安時代末期に絶大な権力を持った平氏 【清盛を頂点にした平家】の発祥地とされています。
平氏は、桓武天皇の曾孫、高望王が臣籍降下【しんせきこうか~皇族がその身分を離れて臣下の籍に降りること】して平 高望となって平氏の祖となり、初めは東国を主な地盤としていましたが、高望の孫の世代になって平 将門の乱など、朝廷に叛く反乱もあって地盤の勢力を弱め、代わりに台頭してきた源氏が勢力を拡大させたこともあり、平 将門を討った貞盛の子、惟衡が伊勢、伊賀地方に移って勢力を広め、1006年 寛弘3年、惟衡(これひら)は伊勢守に任じられ、名実共に平氏の発祥地となりました。
惟衡の玄孫(やしゃご~4代目)にあたる忠盛が誕生したのは、惟衡が伊勢守を賜った90年後の1096年 永長元年のことでした。
忠盛塚
庭園跡地 凪の木
庭園の小高い丘が丸山と言われる忠盛塚のことで、江戸時代に刊行された勢陽雑記には、(まりが塚)とも伝わる丸山の丘が忠盛の胞衣(えな)を埋めた塚と伝わります。
さらに庭園奥には、産湯に使ったと伝わる産湯池が残されます。
忠盛は、朝廷内の勢力の間を巧みに渡り歩き、伊勢平氏で初めて昇殿を許されました。
北面の武士、追討使として白河院政から鳥羽院政を武力で支えてその役割を果たすとともに、日宋貿易にも従事して平氏の莫大な財力を蓄えました。
忠盛が築いた武力と財力は、子の清盛に引き継がれ、白河院の落胤とも噂された清盛はさらに政治的駆け引きを得意として鳥羽院と崇徳院、さらに後白河天皇と渡り合い、後の平氏政権の礎となりました。