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日本歴史紀行

家康公紀行 1 岡崎城 〜愛知県岡崎市〜



岡崎城 天守
愛知県岡崎市康生町 岡崎公園



大河ドラマ〜どうする家康〜の放送から4ヶ月余り、前回の放送で家康公の生涯最大の負け戦となった三方原の戦いが描かれました。
 

静岡のローカルニュースや、バラエティ番組などで、今は空前の家康ブームという話題が度々取り上げられています。

元々、ぼくは家康公ファンなので、一年中家康ブームですが…(笑)


ほぼ時代の時系列順に掲載している、ぼくのブログのメインカテゴリーは、現在、源平合戦に差し掛かったばかりで、しかも最近は様々な話題を追っていることもあり、この調子だと、戦国時代までは、かなり先になってしまいそうなので、他のカテゴリーとダブりそうですが、家康公のカテゴリーを作ってみました。








岡崎城天守
愛知県岡崎市康生町 岡崎公園



徳川家康は、1543年 天文11年 12月26日、岡崎城 二の丸で生まれました。

岡崎城の築城は、室町時代も後期に差し掛かる
頃で、三河国守護代の西郷稠頼、子の頼嗣により三河の大河、矢作川の支流 乙川を背後に小高い山(丘)の龍頭山に築かれた平山城で、家康の祖父 松平清康の代に西郷氏を圧迫して姻戚(西郷頼嗣は松平信光の子 ~松平光重(大草(岡崎)松平家初代)の婿)となり屈服し、清康は安祥城から岡崎城へ移り、館同然の岡崎城を拡張しました。


英邁の清康が尾張 守山で不運な死を遂げると松平宗家は急速に没落、清康の嫡子 千松丸(広忠)は叔父の松平信定に狙われたため、家臣らと伊勢に逃れて再起を誓います。


これにより、千松丸の元服前の童だったことから松平宗家存亡の危機となり、東の大国、駿河の守護 今川義元を頼ります。


背後に大国、駿河の今川氏の力を得たことで千松丸は岡崎城に返り咲き、千松丸は元服し、松平広忠となりました。1536年 天文6年のことです。

1541年 天文10年 広忠は三河 刈谷城主 水野忠政の娘、於大を娶り、岡崎城に迎えます。

そして1542年 天文11年12月26日 嫡子 竹千代(後の徳川家康)がこの世に生をうけます。


岡崎城大手門






徳川家康 (東照公)産湯井戸





徳川家康(東照公)衣胞塚


竹千代(家康)誕生後も三河と松平宗家に安泰の日は来ず、母 於大の実家、刈谷 水野家は当主 忠政が没すると、家督を継いだ於大の兄 水野信元は松平宗家の仇敵 尾張 織田氏と手を結んだた
めに於大は離縁され、刈谷に帰されてしまいました。


その後、今川氏は竹千代を人質に要求、広忠は竹千代を今川の本拠、駿府に送りますが、道中、家臣 戸田康光の裏切りに遇い、敵国 尾張の織田氏に売り飛ばされてしまいました。


家康の苦難はここから始まりました。




徳川家康誕生の地~岡崎城は、神君 家康公 生誕の地として、江戸時代以降は石高 五万石ながら特別視されました。




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