松平竹千代 像(2016年撮影)
松平 竹千代 (徳川家康)像
静岡市葵区 静岡駅前
三英傑とは、戦国時代後期に尾張、三河。現在の愛知県で生を受け、天下統一さらに泰平の世へと導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を指す呼び名で、明治時代に定着しました。
徳川家康(幼名 竹千代)は、幼児期に母、於大が離縁されて引き離され、さらに父、松平広忠は駿河、今川氏への人質として竹千代を送るも、道中 家臣の裏切りにより敵国 尾張の織田氏に売り飛ばされるという二重の悲劇に遇い、約2年を織田氏の元で暮らします。
この間に竹千代の父で、三河の国守 松平広忠は刺客の手により命を落とし、今川は三河兵を先陣にたて、織田領となっていた安祥城を攻め、織田信長の兄にあたる信広を生け捕り、竹千代との交換を実現させます。
人質交換により、竹千代は織田の手から解放はされたものの、今川義元は竹千代が幼いことを理由に、後見人として身柄を預るとし、なおも三河の国は今川の手にありました。
1556年 弘治2年、15歳になった竹千代は元服の儀式を執り行い、烏帽子親は今川義元が自ら務め、竹千代への加冠を、娘を竹千代に託し、義父となった関口親長が月代を刈り理髪を済ませました。
松平竹千代、今川義元公像(今年撮影)
静岡市葵区 静岡駅前
三河 寺部城跡
愛知県豊田市寺部町
1558年 永禄元年、三河寺部城主 鈴木重教が反旗を翻して織田氏に味方したことに今川義元は激怒し、元信に初陣を兼ねて出陣を命じます。
この初陣で元信は敵の後詰めを防ぐため、梅坪、伊保といった支城を一つ一つ、枝葉を刈る如く確実に落とし、最後に寺部城を夜襲で落城させました。
猛者揃いの三河衆を初陣の若武者が指揮しての大手柄に義元も喜ぶも、それでも三河の地を返すとは言いませんでした。
三河武士には希望無き苦難の時代が続きます。
桶狭間の戦いまで。