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日本歴史紀行

八十八夜 寄稿 4 牧之原大茶園 2


牧之原大茶園






牧之原開拓先駆者記念碑~中條金之助景昭






牧之原大茶園 ~牧之原開拓先駆者記念碑~



牧之原大茶園

静岡県島田市、牧之原市、菊川市



牧之原開拓先駆者記念碑

静岡県島田市阪本~種月院




大井川は、水源を南アルプスに持ち、駿河国と遠江国の国境をなす大河で、かつてはこの地方を支配した駿河の戦国大名の 今川氏が没落した際に、三河から勢力を拡大して遠江に進出した徳川家康と、甲斐の武田信玄が今川氏を挟撃し、領土を分割したのも大井川を境に東の駿河を信玄が、西の遠江を家康が領有するという盟約を結び(この盟約は、信玄の欲のために破られましたが)、東海道の島田宿と金谷宿を結ぶ地域ながら、江戸時代を通じて橋を掛けられることもなく、雨期には度々氾濫するために川止めをなされ、川越人足が川を渡る人を渡していました。


その大井川の上流から流れる土砂が太古の昔から経年堆積(たいせき)して川際に洪積台地を形成し、さらに西を流れる菊川からも堆積土砂を受け入れ、大井川と菊川に挟まれる形となった堆積土砂が今日の牧之原台地を生み出しました。



この台地は大井川以南から始まって遠州灘の御前崎まで続き、結果的に5000ヘクタールという茶の一大産地を作り出します。


しかし、この広大な台地は、強酸性の土壌に加えて水源に乏しく、耕作には不向きとされて江戸幕府の天領でありながら、入植も疎らな痩せた土地でした。


そして時代は明治時代へ進みます。
江戸幕府が政権を朝廷に返上し、武家政権が終わりを告げました。

多くの旗本以下の幕臣たちが江戸を離れ、駿河(現在の静岡県)へとやってきました。


さて、記念碑に名のある中條金之助景昭。

この痩せた台地をどうにか旧幕臣らの為に使えないかと、元新番組の中條金之助景昭は考えました。


景昭は勝 海舟に話を持ちかけました。


~聞く処によると、金谷原という不毛の土地は、水路に乏しく、民は捨てて顧みざること数百年に及ぶ。

我輩にこの土地を分け与え下されば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終わろう~

景昭からこう聞いた勝 海舟は感激し、行事に対して尽力すると言って約束しました。

勝海舟は、開墾に際して、景昭に茶の栽培を薦めました。

なぜ茶だったのか。


3に続きます。



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