![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/af/4f0b516401fea82da8c8e3711e067d4a.jpg?1683026928)
牧之原大茶園
静岡県島田市、牧之原市、菊川市
不毛の台地 金谷原~(牧之原台地)を開墾したいと申し出た中條金之助景昭に勝 海舟が薦めたのは、茶でした。
勝 海舟は、幕末の1859年 安政6年に幕府が開国を決め、横浜と長崎が貿易港となると、生糸や製茶がアメリカから珍重され、輸出量が増えていったこと、
開国の翌年には、咸臨丸で太平洋を横断し、使節としてサンフランシスコに上陸し、アメリカ最先端の技術、産業、文化、そして暮らしを観てきた者として茶は利益を得る輸出品になると、そして幕末の終末期に見せた時勢に対する洞察力は、東征軍参謀として官軍を率いてきた西郷隆盛を説き伏せ、江戸の町を戦火から救いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/bd/04881a5e20cd359d70a47c4f3aa2529a.jpg?1683026959)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/df/afe2e3921937e3c699e2c3e7903a458b.jpg?1683026968)
そして静岡の近隣、本山や川根地区はすでに茶産地として徐々に発展途上にあったことに着目し、中條金之助景昭から不毛の地とされた牧之原を開拓すると伝えられ、茶こそ、相応しいのではないか…。
勝は旗本八万旗といわれる幕臣らの将来、行く末を考えた時、中條金之助景昭らの開拓は絶対に成功させねばならず、出来る限りの支援を約束しました。
勝 海舟、山岡鉄舟といった旧幕臣幹部らが後援者となり、そして徳川宗家16代目の徳川家達の援助もあり、幕臣士族 中條金之助景昭を隊長とする新番組の隊250名が1869年 明治2年7月から牧之原台地の大井川に近い谷口原に入植しました。
開拓士族たちは、まず、家と呼ぶには粗末な雨風を防ぐ程度の掘立て小屋を作り、申し合わせ開墾(いわゆる合同作業)で10人一組となって1日 100坪を目標に作業し、雑草を刈り、土をおこしました。
ただ、水利の悪い酸性の洪積層土壌の台地での開墾は難渋を極めました。
それでも開墾が成ると茶の種子を蒔き、僅かずつ収穫され、谷口原は明治8年には約1ヘクタールを開墾し、西南戦争後の明治11年には200ヘクタールに及びました。
明治から大正、昭和と時代が移ると牧之原台地での茶畑は5000ヘクタールとなり、日本一の茶産地となりました。
そこに至るまでには、先頭をきって不毛の台地を耕した中條金之助景昭ら、旧幕臣士族の血の滲む努力がありました。