見出し画像

日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 12月8日 1941年 昭和16年 12月8日 太平洋戦争開戦


皇居



〜大東亜戦争(太平洋戦争)開戦の流れ〜   

最初に、日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分(現地時間午前1時30分)に上陸し、海岸線で英印軍と交戦、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれました。


続いて帝国海軍航空隊が日本時間12月8日 午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)にアメリカ領 ハワイ州オワフ島 真珠湾(パールハーバー)へ向けて発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始されました。


この攻撃に先立ってイギリスとアメリカ側に通告されるはずだった対英、対米覚書は、大使自ら英文に訳するのに手間取り、マレー攻撃、真珠湾攻撃後になってしまったことから、両国への不意打ち攻撃としてとらえられ、イギリス、アメリカへ戦意を煽る結果となりました。






昭和16年12月8日より始まり、終戦の昭和20年8月15日まで、日本史上 存亡の危機を覗かせた最も苦しく辛い時代となります。



ここで昭和天皇による宣戦の詔書を原文と現代語釈文を掲載いたします。







昭和天皇 太平洋戦争 宣戦の詔書(原文)




開戦の詔書(しょうしょ) (昭和16年12月8日)



 天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス。


 朕茲(ここ)ニ米国及(および)英国ニ対シテ戦宣ス。


 朕ガ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ、朕ガ百僚有司(ひゃくりょうゆうし)ハ励精(れいせい)職務ヲ奉行シ、朕ガ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ、億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ。


 抑々(そもそも)東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ、丕顕(ひけん)ナル皇祖考、丕承(ひしょう)ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ、朕ガ拳々措カザル所。

 而(しこう)シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ、万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ、之亦(これまた)帝国ガ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ。


 今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端(きんたん)ヲ開クニ至ル。洵(まこと)ニ已(や)ムヲ得ザルモノアリ。豈(あに)朕ガ志ナラムヤ。


 中華民国政府曩(さき)ニ帝国ノ真意ヲ解セズ、濫(みだり)ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ撹乱シ、遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ、茲(ここ)ニ四年有余ヲ経へタリ。


 幸(さいわい)ニ国民政府更新スルアリ。帝国ハ之(これト)善隣ノ誼(よしみ)ヲ結ビ相提携スルニ至レルモ、重慶ニ残存スル政権ハ、米英ノ庇蔭(ひいん)ヲ恃たのミテ、兄弟(けいてい)尚未(いま)ダ牆(かき)ニ相鬩(あいせめ)クヲ悛(あらた)メズ。


 米英両国ハ、残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ、平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス。


 剰(あまつさヘ)与国ヲ誘(いざな)ヒ、帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ、更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ、遂ニ経済断交ヲ敢(あえ)テシ、帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ。


 朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡(うち)ニ回復セシメムトシ、隠忍久シキニ弥(わた)リタルモ、彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク、徒(いたずら)ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ、此ノ間却かえッテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ、以テ我ヲ屈従セシメムトス。


 斯かくノ如クニシテ推移セムカ、東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉(ことごと)ク水泡ニ帰シ、帝国ノ存立、亦(また)正(まさ)ニ危殆きたいニ瀕セリ。

 事既(ことすで)ニ此ニ至ル。帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、蹶然(けつぜん)起たッテ一切ノ障礙(しょうがい)ヲ破碎(はさい)スルノ外ほかナキナリ。


 皇祖皇宗ノ神霊、上ニ在リ。


 朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚(しんい)シ、祖宗ノ遺業ヲ恢弘(かいこう)シ、速ニ禍根ヲ芟除(さんじょ)シテ、東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス。


御名御璽(ぎょめいぎょじ~天皇陛下の印章)

昭和十六年十二月八日 各国務大臣副書





昭和天皇 宣戦の詔書(現代語訳)



詔 書

神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者は務めに励んで職務に身を捧げ、私の国民はおのおのその本分を尽くし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ、この戦争の目的を達成するために手違いのないようにせよ。


そもそも東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与する事は大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。

そして各国との交流を篤(あつ)くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や不幸にして、米英両国と争いを開始するに至った。
誠にやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。


中華民国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態に至らしめ、もう四年以上経過している。

幸いに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する政権(蒋介石)は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、未だに相互のせめぎ合う姿勢を改めない。

米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

(それだけでなく)与(くみ)する国々を誘い、帝国の周辺において軍備を増強して我が国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間忍耐してきたが、米英は少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態が続けば、東アジアの安定に関して我が帝国の積年の努力はことごとく水の泡となり、帝国の存立もまさに危機に瀕している。

ことここに至っては、帝国は今や自存と自衛のため、決然と立ち上がって一切の障害を破砕する以外にない。

皇祖皇宗の神霊をいただき、私は汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、速やかに禍根をとり除いて東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。



 御 名 御 璽(ぎょめいぎょじ=天皇陛下のお名前とその印章のこと)

  昭和十六年十二月八日

各国務大臣副書

ランキング参加しています。応援お願い致します!

コメント一覧

aoikitakaze4390031も
貴重なコメントを拝読させていただきました。
牛込の男の子…お父上はこの時の想いを誇りにされて来たと思います。
ザビエル来日に際し、海外では、宣教師が布教し、教化し、やがてその地を植民地とする尖兵の役割りを果たす側面を持ちますが、来日時、日本は戦国時代ということもあり、甚だ無謀と考えたでしょうね。
昭和天皇については、昭和時代の史跡探索等でいずれ始めるつもりです。
大変、参考になるコメントをありがとうございます。
kikokikonoriko19888888
言葉にできない,、、想いですね。

父の卒業した小学校は明治末に開校したのですが
関東大震災で、わずかな損傷で残り避難場として
多くの民を救いました。大正になって、、保護者の会
があったという、、、PTAの教育への参加のあった
小学校だったそうです、
 この時代に
   陛下が小学校にお見えになったそうです。
クラス委員だった父と、父の兄弟が、
陛下をお迎えする生徒代表に選ばれて、、、
  父は、、亡くなる前まで、、
 その時のことを話しては、、、笑顔になっていました。

時代から推測すると,大正8年前後ですよね。
昭和天皇様が摂政をなさっていたころでは
               ないでしょうか?
その時以来、、父と弟は、、
 「牛込の男の子」と言われて、、
本人は勿論、、、
学校の宝物になった出来事だったと聞いています。

陛下は、、民とともに生きてくださった、、
、日本人の心そのものです。

母方の祖父も、、、
和歌山生まれですが、
27歳でアメリカにわたりました。

真珠湾攻撃の時は、カリフォルニアにいたそうですが、
通信技術や、、英語は、、日本人はダメだった時代だと
言っていました。
後になって、、かの有名な暗号の
「にいたかやまのぼれ」の打電は、、
アメリカに解読されていたそうですね。
日本の通信技術は、、あ粗末だったと嘆いていました。

短期決戦以外には、、すべての面で、、、
アメリカには勝てないと、わかっていたのに
  連合国相手に開戦の火ぶたを切ってしまったのは
 
日本は、、すべてにおいて、、
世界のチームに
入れてもらうのには、、、純粋に物事を頑なまでに
武士道の心が、、、根っこで時代についてゆくのを
遅らせたと、、言っていました。
科学の時代に,、
乗り遅れたのではないでしょうか?
戦争の開戦の火ぶたとなった真珠湾には
「とうきび畑の低賃金労働者」だった日本人も
   多くの犠牲者の中に含まれていたと
アメリカから帰国した祖父が言っていたのを
思い出します。

ハーバード大卒業の日本の大将格の有名な彼は
日本が、、科学力、、資源力、、国際親善力、、
   東洋の平和を守るためには、、
 明治維新からあまりにも、、国民の世界認識が
幼かったと、言っていたと、話してくれました。

陛下のお立場は、、、
世界への認識がおありになるお立場でありながら、、、
宣戦布告のお立場にいらっしゃった、という事が、、、
万感の思いで、、一国民として
陛下のお立場という
国民の幼い世界認識では、、、
やむを得ない文化のズレの中で、、
国民には
はかり知れない、、
      、お心で
         なされた,、、
           お言葉であったと思います。
世界情勢の成り行き上、、、
避けられない時代の流れが
ザビエルの来日の時に、、
すでに、日本はターゲットになっていたような、
歴史を感じてしまいます。

これは資料として、聞いた話ですが、、、
何かの判断に
   お役に立てば幸いです。
80歳なので、、こうして明日ありと思う桜の心を捨てて、
昔聞いた話を話しておくことも、、
歴史探求の方には
何かのお役にたてばと、、
失礼を顧みず、、、
書かせていただきました。
お読みになったら、、
削除していただければ、特定の資料として、、
裏をおとりになって,、真偽を確かめれば、、
当時の日本における、
摂政時代の陛下が、
どのような日常をお過ごしだったか、、
わかるかもしれません。 
ばあちゃんは政治音痴なので、、
これは父が話していた自慢話の類かもしれませんが、、
父は無口で、自慢をするような人ではなかったので、、
私の心には大切に残っています。
まずは、、
いつも読ませていただいている、、お礼になればと、、
失礼を顧みず、、資料として、、
役に立つかもと、、思いました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「歴史 今日の出来事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事