奈良市 東大寺
東大寺 盧舎那仏坐像
奈良県奈良市雑司町 東大寺
奈良と聞くと、何を思い浮かぶでしょうか。
多くの人が大仏様や鹿を思い浮かぶでしょう。
国宝にして世界遺産に登録された東大寺の大仏様です。
正しくは、銅造 盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)といいます。
盧舎那仏は、知恵と慈悲の光明をあまねく照らす仏の意味を表します。
東大寺 大仏殿の本尊として743年 天平15年、聖武天皇の詔(みことのり)により造立が決まり、鋳師(いもじ)が3年をかけて仏体を整え、像の高さは14.73メートル、使われた銅は500トンにも及び、完成となる開眼供養の儀式が行われたのは詔から10年目の752年 天平勝宝4年のことで、大仏の開眼供養の後に大仏殿を始めとした伽藍が整備されました。
大仏は、平安時代末期の源氏と平家の戦いか激化した1180年 治承4年、平清盛の五男 平 重衡の南都焼き討ちと1567年永禄10年の松永久秀の手により大仏殿ごと焼き払われました。
二度の兵火に焼かれた大仏が大修理されたのは江戸時代になってからでした。
東大寺の創建と大仏の建立は、奈良時代中期の時代背景も深く関わります。
聖武天皇の治世 天平時代は、天災、飢饉に加え、疫病〜疱瘡(天然痘)も大流行し、国民はおろか、天皇の臣下でさえも、次々と命を落としす、まさに国難の時代でした。
疫病に国民が苦しむ姿は現代のコロナウィルスにも重なるものとなりますが、この国難を乗り越えるべく、聖武天皇は、国分寺、国分尼寺の建立の詔を天平13年に、加えて大仏造立の詔を天平15年に発布されました。
仏教の力で国内を平穏に保とうと考えたのです。
聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔(みことのり)を発し、仏教の力により国内平穏の礎を築こうと考えました。
大仏造立は、作業に携わった人員述べ260万人、鋳造に使われた銅、およそ500トン。
すべてにおいて破格の事業でした。
天平 勝宝4年(752年)4月9日、原型造り、鋳造を終えた大仏を前に大仏開眼供養会が盛大に行われます。
この年は日本に仏教が伝来して200周年の節目の年でした。
右手は人々の恐れを除く施無畏印(せむいん)。
左手は人々の願いに寄り添う与願印(よがんいん)
両手に人々の想いを形に表す印相として結ぶ姿の巨大な坐像の大仏は、宝亀2年(771年)に仏身の造立を経て背後の光背の設置をもって完成となりました。
造立開始から26年の歳月が過ぎていました。
東大寺 大仏殿
奈良県奈良市雑司町
東大寺 大仏殿は、奈良時代前期の747年 天平19年、聖武天皇の大仏造立の詔(みことのり)により、盧舎那仏(大仏)の造立とほぼ同時に紫香楽(しがらき)宮で建築が始まりました。
ただ、聖武天皇による紫香楽(しがらき)宮は平城京遷都し、現在の地にて大仏造立とともに再開。
完成は着工から四年後の751年 天平勝宝3年、坐像ながら、頭頂高16メートルもの盧舎那仏(大仏)を覆う大仏殿は、高さ46.8メートル、正面57メートル、側面50.5メートルと世界に類を見ない最大規模の木造建築として竣工しました。
巨大で豪壮さが際立つ大仏殿ですが、平安時代末期の平家の南都焼き討ちと、戦国時代の松永久秀と三好氏の戦いの兵火により二度に渡り焼失しました。
平家の南都焼き討ちに際しては、後に鎌倉幕府を興した源頼朝と朝廷の実力者 後白河法皇の援助により再建され、戦国時代の焼失後には、巨大な材木の調達などに苦心して再建は進まず、江戸時代になって徳川五代将軍 徳川綱吉の協力を得てようやく再建されました。
大仏殿は最初の竣工から約1200年あまり、2000年に古都奈良の世界文科遺産として登録されました。