安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)
山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
悲劇の帝、安徳天皇が誕生したのは、この世の春を謳歌していた平清盛を筆頭とする平家一門の政権がいよいよ斜陽を迎える1178年、治承2年11月12日のことでした。
その前年の1177年、治承元年
清盛と後白河法皇の蜜月の要となっていた後白河法皇最愛の女御、建春門院(平滋子〜清盛の義妹)の死去以降、清盛と後白河法皇は利害を巡り激しく対立するようになり、安徳帝誕生半年前の1178年、治承2年5月29日、後白河法皇と近臣らが平家政権の滅亡を企てたとして、藤原成親、西光らが捕らえられ(鹿ヶ谷の陰謀)、後に処刑された事件により、清盛と後白河法皇は対立する間柄と変化します。
藤原成親はかつて平治の乱で、反清盛の立場にあったものの、妹が清盛の長男、平重盛の妻となったことで許されたものの、二度目の裏切りに清盛も許さず、備前国に配流として座敷牢に押し込め餓死させ、西光は清盛らの激しい拷問の末に陰謀を自白させます。
その際、西光に【〜もとは昇殿すら叶わなかった無頼の高平太如きが〜要約…御所に入れない無職(官職の無い者)で高平太〜清盛のことを低い身分の高下駄を履いた長男とした蔑称】と清盛を激しく罵ったことから、清盛はかつて無い程激怒し、ただでは殺さぬと、西光の口を切り裂いて斬首刑に処したことで、清盛と後白河法皇はもはや、修復もならない関係となりました。
こうした所業に京の民も眉をひそめる世情の中、懐妊中の徳子(安徳天皇の母、平徳子、後の建礼門院)は度々、物の怪、悪夢に悩まされたことで安徳天皇出産に際して、かなりの難産の末に待望の親王の誕生に清盛の喜びもひとしおでした。
しかし、清盛が謳歌したこの世の春が尽きた後、平家一門と孫の安徳天皇に待ち受けていたのは滅亡の結末でした。
関門海峡〜壇ノ浦古戦場跡
安徳天皇御入水之処碑
平家一門之墓