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日本歴史紀行

思い出フォト 139 暗殺者 終の住処


蓬莱橋









 

1872年 明治5年、
旧幕臣 中條金之助景昭が開墾方頭として茶園を開拓する谷口原の一角にある色尾と呼ばれる急峻な三方を崖に囲まれた一見、谷底の様な離れの地に、旧幕臣が忽然と現れて移り住みました。


敗軍となった幕府に、最後の箱館戦争まで付き従い生き残った眼光鋭いその幕臣は、台地の開拓を主導する中條金之助景昭の問いに、元京都見廻組の今井信郎と名乗りました。











今井は、京都見廻組の元隊士で、1867年 慶応3年11月15日に坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺した首謀者として知られた人物でした。


明治2年 5月18日、箱館戦争は総帥 榎本武揚が新政府軍に降伏し終結、幕府軍兵士に武装解除を命じました。


今井は降伏後 収監され、江戸に護送されます。
そして明治政府 刑部省に引き渡され、坂本龍馬殺害について取り調べを受けます。


今井は、供述によると、慶応3年11月15日、見廻組頭の佐々木唯三郎に従い近江屋に急行、佐々木の命で一階で見張りをしていたと主張しました。


結果、今井に下された判決文は、~見廻組与頭 佐々木唯三郎指図の下、坂本龍馬捕縛に際し、手を下さずとも事件に関係し、その後 脱走し、官軍にしばしば抗戦いたす。よって禁固申し付ける~とされ、禁固刑の処分を言い渡しました。


ただ、この判決は公にされず、その裏で明治維新実現の功労者である坂本龍馬殺害という大罪に関与した今井の助命嘆願をしたのは、西郷隆盛でした。


西郷がなぜ今井の助命に関わったのかは、この記事では触れませんが、結果、今井は禁固刑で静岡藩に引き渡しとなり、徳川慶喜の蟄居する浮月楼に入りました。


今井は明治5年正月まで名ばかりの禁固刑を浮月楼で過ごし、明治5年正月6日付けで赦免され、自由の身となりました。

そして旧幕臣が開拓に入っている牧之原に入りました。



坂本龍馬暗殺という明治維新実現の功労者を殺害したという大罪でありながら、明治新政府の参議として重職にあった西郷隆盛の嘆願により、禁固2年という極めて軽い処分に処された今井信郎は、明治5年正月に恩赦で自由の身となりました。

今井は、生活の糧を得るべく、他の旧幕臣がそうした様に牧之原へ移住します。

ただ、今井が終の棲家として選んだ場所は、中條金之助景昭らが開墾している谷口原の南端の谷合いの小豆沢と呼ばれる集落の外れで、建てた家も特殊な造りでした。


部屋の一つは、縁の下から家の西側を流れる川岸にも逃れられる抜け穴のあるもので、抜け穴はトンネルとなって屋敷の裏の崖に繋がり、非常の際はここから逃げ出せる造りで、今井は刺客をたえず警戒していました。


そんな今井ですが、牧之原移住後の人生は、幕末に戦いに明け暮れた日々とは、あまりに違うものでした。


勝 海舟の体験談を記した(海舟座談)にこの様な逸話が残ります。


私の知人に今井信郎という人がおる。

維新の当時は血気盛んな青年であった。

剣術の達人で、京都や北越に転戦して屡々(しばしば)偉勲を奏した、極めて熱心な幕府の忠臣であった。

明治5~6年の頃、旗本や御家人が静岡の牧之原へ帰農して行き、今井もまたその中の一人だった。

維新の時に、久能山に奉祠した東照宮の木像と同様の木像が集まってきた。

一つは、上野の彰義隊が、敗軍の時に持って逃げて来たもので、今一つは、江戸城内吹上の紅葉山にあったのを江戸城引渡しの時、幕臣が持って来たのである。

そこで、一ヶ所に祭って置くのも無益な話しであるから、其中の一体を分けて、帰農士族の村落に掘社を建立しようという相談が始まって、今井が、その運動委員に撰ばれた。


今井は、第一に、東京に来って、まず、山岡鉄舟の許を訪ねて其相談をいたしました。


鉄舟は相談を受けると、それは至極結構な御話であるから、旧幕に縁故のある三井、渋沢などの実業界の人間に談判するには、時の東京府知事を勤めている大久保一翁の添書を貰うがよかろう。


また、旧幕の旗本や士族の方面を説くには、勝海舟の力を借りるがよかろうと、一々親切に方策を授けてくれた。


今井はすぐさま大久保を尋ねて、其事を頼み込みますと、大久保の返事は極めて冷淡であった。

大久保曰く、其は、東照宮様が定めし御迷惑でありましょう。


のみならず、私は御承知の通り、只今は東京府知事を致して居りまして、日夜多忙を極めて居るから、とても其のような御世話をする暇がありません。

この義はひらに御免を衆ります。

すると、「今井は慣然として怒った。この大久保の爺、自分が官職に就いたものだから、徳川家の大恩を忘れてしまったのである。此の恩知らずめが!」と吐き捨て、何を頼むものかと突然席を蹴り立て、ろくに挨拶もせずに出て行った。



そこで、今度は俺(勝 海舟)の家を今井が訪ねてきた。


勝。ウン、何にかえ、その木像は作がよっぽど善いかえ?。

今井~「いいえ。作が別段宜しいと云う訳ではありませんが、紅葉山の御代に祭ってあった、噂とい御像でありまして、何様歴代の御恩を蒙りました東照宮様の御神像で御座いますから、其の御一体を分けて、私共の郷社に祭りたいと云ふのであります。

勝~「うん そうか、そうして其れを祭つると何にかに成るのかえ。」

今井~「イヤ、何にかに成るかではありません。東照宮様の御恩に報い奉る、一心でやるのであります。」

勝~「ソンナ事ならおれは真平ら御免だョ。」


今井は火の如く憤って、「この腰抜けめが、貴様も、大久保同様、政府の役人になって、徳川の大恩を忘れくさったコンナ奴等には頼まネェ!」と言うと、見幕で憤然として立ち去った。

憤慨の余り、今井は、熱心に運動して、漸くの事で、旧士族のなけなしの金を絞って、千円の寄付金を集め、谷口原に村社を建てることが出来た。(以上 海舟座談)

今にも斬りかかる剣幕で喧嘩別れした今井こそ、勝海舟が進むべき道を教示し、維新回天の原動力となった弟子でもある坂本龍馬を斬り捨てたとは想像できたでしょうか。


勝海舟の断りに憤激した今井ですが、この事が好を奏したのか、谷口原近くに牧之原東照宮が創建されたのが明治8年のことでした。


牧之原東照宮跡










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