バルチック艦隊の大誤算
1904年、明治37年10月15日、バルト海のリバウ港を出港したロジェストウェンスキー中将指揮のロシア第2太平洋艦隊(日本名〜後のバルチック艦隊)は、出港間もない10月21日、イギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して砲撃し、漁船の死傷者を出すドッカーバンク事件を起こしてイギリスの態度を硬化させます。
イギリスは日本と開戦2年前に日英同盟を結ぶ間柄で、ロシア第2艦隊は砲撃後、被害者の救護も行わずに北海を通過したことでイギリス世論はロシア憎しで湧き上がました。
イギリス政府はロシア艦隊に対し、イギリス本土はもちろん、植民地での寄港、補給も拒否すると通告し、これにより、ロシア第2艦隊はイギリスの支配下にあるスエズ運河を通過してのインド洋に抜けるという航海が出来なくなり、アフリカ西海岸沿いを南下して中立国の港に寄港せざる負えず、アフリカ大陸最南端の喜望峰を迂回するという事態に見舞われます。
この事態は大誤算で、ロシア第2艦隊は日本海へ半年もの時間をかけて航海するというロシア艦隊の出端を挫くものとなりました。
ロシア第2艦隊がアフリカ大陸沖を南下しつつ、12月に入るとロシアはイギリスに対して謝罪して補償することを確約したことでイギリス世論はようやく鎮静下し始めました。
1905年、明治38年を迎え、ロシアの旅順艦隊が日本の連合艦隊に敗れ、ロシア海軍は第3艦隊の出港を決めたのは2月に入ってのことで、この頃、日本の連合艦隊は黄海海戦の傷を癒やし、猛訓練を開始しようとする時期でした。
連合艦隊のバルチック艦隊迎撃作戦
日本の大本営では、海軍の黄海海戦の勝利。
陸軍の旅順要塞占領を経て連合艦隊が旅順艦隊を壊滅せしめることに成功したことを受け、来たるべきロシア第2太平洋艦隊〜【バルト海から発したことにより、バルチック艦隊と命名】との海戦に向け、分析が行われていました。
対バルチック艦隊撃滅への作戦が、語りぐさとなる丁字戦法となりますが、連合艦隊旗艦 三笠の作戦参謀 秋山真之中佐が進言した7段構えの作戦〜
第1段
バルチック艦隊を早期に発見し、決戦前夜に駆逐艦隊による奇襲攻撃。
第2段
三笠以下の主力艦隊による正確な砲雷撃。これには黄海海戦で効果が実証された新炸薬を搭載した特殊榴弾を使用。
第3段、第4段
日没後の駆逐艦隊、水雷艇による夜通しの奇襲攻撃。
第5段、第6段
夜明け後による主力艦隊による追撃、撃滅。
第7段
撃ち漏らした敗走残敵艦を施設した機雷原の漂うウラジオストク港近海へ追い込み、壊滅させる。
旗艦 三笠以下の連合艦隊が正確に行えるかが、2倍以上の艦艇戦力を持っバルチック艦隊を破る勝利の条件となりました。
1月21日。大本営は、連合艦隊に対し、修理完了次第、佐世保等から順次出港し、丁字戦法を含めた7段構えの作戦のための訓練を課しました。
敵艦見ユ
1905年、明治38年5月9日、インド洋を抜けたロシア、バルチック艦隊は、フランスの植民地インドシナ(現在のベトナム)領カムラン湾に入り、第3艦隊と合流します。
連合艦隊はウラジオストクを目指すバルチック艦隊は、対馬海峡を通るとみて、厳しい訓練を繰り返して待ち構えます。
明治38年5月27日深夜、ロシアのバルチック艦隊がついに九州の対馬海峡沖に現します。
午前2時45分
付近哨戒中の仮装哨戒艦 信濃丸が海上をかすかに灯火光を発見し、信濃丸は、【敵艦見ユ】と警報を連合艦隊に発信。
これにより巡洋艦 和泉が急行して接触を計り、艦隊の位置、進路、速度、陣形などを詳細に連合艦隊に報告します。
午前6時
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、「敵艦見ユとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第1報を大本営に打電して旗艦三笠を率い鎮海湾から出撃します。
打電文の最後〜本日天気晴朗なれで波高し〜の一文は、参謀 秋山真之が書き加えました。
6に続きます。