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金閣寺(鹿苑寺)
京都市北区金閣寺町
応安元年12月30日(1369年2月7日)
足利義満 室町幕府3代将軍に就任
鎌倉幕府を倒幕し、天皇親政の世を創る…
後醍醐天皇の悲願でもあった建武の新政は、楠木正成、新田義貞、足利尊氏と、主に三人の武将の類い稀な働きによって成し遂げられました。
しかし、主だった働きを成した武家への低い恩賞、朝廷貴族への厚遇に下支えしてきた武家勢力は徐々に建武の新政権を見限り、そこへ鎌倉幕府執権 北条高行の遺児、北条時行が起こした中先代の乱を巡り尊氏と後醍醐帝は対立、やがて尊氏への暗殺未遂もあり、両者は破局し、尊氏は後醍醐帝を南都 吉野に追いやり、かつて鎌倉幕府が擁立した持明院統の光厳天皇を即位させて北朝を起こし、史上初の一天両帝ともいえる南北朝という暴挙を挙行しました。
北朝2代 光明天皇から征夷大将軍の地位を得た尊氏は京に室町幕府を成立させ、初代将軍となりました。
しかし、尊氏の成立させた幕府は、政務を任せた弟、直義と軍事を任せた高 師直が反目するなど、眠れぬ様な日々を送り病気がちになり、1358年 正平13年( 延文3年) 4月30日、波乱の生涯を閉じました。
尊氏の死から100日あまり、尊氏の孫、3代将軍となる足利義満が誕生します。
父で2代将軍 足利義詮が病没すると、義満は10歳で将軍となります。
幕府の政務は、管領の細川頼之ら、斯波氏 畠山氏の三管領が交代で執り行い、これらの政治抗争の渦巻く空気の中で義満は育ちました。
成長した義満は、学んできた政治抗争を自らの権力の強化へと高めようとします。
幕内で細川氏と斯波氏の抗争を利用して人事を刷新し、有力大名の土岐氏や山名氏の内紛を利用して討伐し、さらに最大の懸念だった南北朝の解消に向けて動きます。
約60年に及ぶ対立は、足利将軍家や有力大名に支えられた北朝に対して弱体化していた南朝は抗うことは出来ず、1392年 元中9年、南北朝は合一となり、両朝が天皇を擁立するという異常事態は義満の時代で終わりを告げました。
1394年 応永元年、義満は将軍職を嫡子 義持に譲りますが、官位を太政大臣にまで登り詰めて実権を握り続けます。
1397年 応永4年、義満は北山にある鎌倉時代の太政大臣 西園寺公経の山荘跡に別荘を建立します。
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北山殿と称された金色の舎利殿は、伝統的な公家の文化である寝殿造に武家や禅の文化を合わせ持つ禅宗寺院の両方を折衷した造りの伽藍で、新たな北山文化がここから生み出されました。